Little Wing
第二章 「水の音色」
「やめた」
「くぅん?」
じっとしていると、気分が悪い方へばかり行ってしまう。体を動かしていれば、悩みなんてどこかへ消えちまうよ。
以前カンナに言われたことを思い出し、レニは軽く頷いた。フントがどうしたのかとでも言いたそうな顔をして眺めている。
「ごめん。ちょっと、地下のプールに行ってくるよ」
「わぅー」
フントの頭を軽く撫でてやると、レニは立ち上がった。ふとフントを見ると、退屈そうに欠伸をして、そのままとろとろとうたた寝を始めた。狭い楽屋の中で走り回るわけにはいかず(以前楽屋を散らかして怒られているので)、昼寝をして時間を潰そうとしているようだ。
そんなフントに小さく笑みを漏らすと、レニは静かに楽屋のドアを閉めた。
いったん部屋に水着を取りに行って、階段を下りて地下に向かう。地下への階段を降り始めて半分ほど行った時、ちょうど鍛錬室で軽いトレーニングをしていたらしいカンナと遭遇した。
「よ、レニ。これから、鍛錬でもしに行くのかい?」
「うん。雨が降っていて外に出られないから、プールに行って泳いでこようと思って」
「そっか。しっかし・・・こう雨が続くと、うっとぉしいってのも確かだよな。早いとこ、お天道様の顔を拝みたいよ」
「カンナ、雨嫌い?」
ははっと笑うカンナに、レニが尋ねる。
「ん〜、そんなことないけど、やっぱり晴れてる方が好きだな。あたい、晴れてる空見るの好きだし」
「へぇ」
「レニは、雨好きか?」
少しだけ考えて。
「・・・どちらかといえば、好き、かな。中庭に出られないのは、少し不満だけど」
「そか。ま、梅雨だから仕方ないって言えば仕方ないんだけどな。こう毎日のように降られると、気分も滅入っちまうよな」
「そう?」
「ま、人によるだろうけどさ」
それじゃあなと手を振って、カンナが階段を上がっていく。その背中を見送って、レニも階段を下りようと一歩を踏み出した。そこへ、
「よう、隊長」
上から、カンナの声がした。はっとレニは顔を上げ、そのままの状態で耳を傾ける。
ここから、二人の姿は確認できない。ということは、二人からもレニの姿は見えないということになる。
「今帰りかい?」
「ああ。ところで、レニは?」
「ん?レニなら、今地下に下りてったところだよ」
「そうか・・・」
どこか、ほっとしたような大神の声に、ずきんっと胸の奥が痛んだ。
「大丈夫だよ。今日は、隊長はどこに行ったかとは聞かれなかったから。それに、もし聞かれてもうまく誤魔化してやるから、安心しろって」
「ん・・・助かるよ、カンナ」
そこまで聞いて、レニは音を立てないように気をつけて階段を下りていった。更衣室のドアを開け、のろのろと水着に着替える。
『助かるよ、カンナ』
大神の言葉が、耳の奥でこだまする。自分に知られていないことを、心底ほっとしたような安堵の声。
「そんなに・・・ボクに言いたくないの?」
ぽつりと呟いた言葉には、不満と悲しみが混じっていた。
プールに入り、泳ぐのではなく、浮力に身を任せて水面を漂う。微かに聞こえる水の音は、雨の音とはまた違うメロディーをレニに聞かせてくれる。
レニは、細く、長く息を吐いた。胸にある気持ちを吐き出すように。
どうして、ボクにだけ教えてくれないの?
どうして、ボクにだけ秘密なの?
どうして、他のみんなは知ってるの?
頭の中が「どうして」で一杯になる。「自分だけ知らない」ということへの腹立たしさと、「自分だけ教えてもらえない」ことへの悲しみ。けれど、それだけではない、この胸の痛み。
どうして、こんなに胸が痛むの?
ちゃぷんっと、全身を水に沈める。不思議な温かさの水が、全身を包み込んでくれる。レニはそのまま水中を泳ぎ始めた。
水中の浮遊感は、まるで空を飛んでいるような気分にさせてくれる。レニは想像力を働かせて、しばらく水中の飛翔を味わう。
「はぁっ」
水面に顔を出して、そのまま天井を見上げる。レニの髪からぽたぽたと雫が落ちる度、ぴちゃん、ぴちゃんと小さく音を立てる。
「隊長・・・」
静かに、けれど熱のこもった声で、レニは大神の名を呼んだ。その呼びかけに答えるモノはなく、ただ水の音色だけが、レニの耳に届いていた。