次の日の朝。
 椿は出勤すると、いつも通り事務局から売店の鍵を持ち出し、売り子服に着替えると仕事場に向かった。
 その途中、ふと客席の扉の前で足を止める。
 例の幽霊が気になるからだ。
 椿はその扉をじっと見つめると、そこに手をかける。
 そして扉を開けると、そこにはしんと静まりかえった空間だけが広がっていた。
「そう都合良くいてくれないわよね」
 それでも『トの13番』の席に歩いていき、やはり目の前の椅子には誰も座っていないことに落胆した。
 これはもう怖いもの見たさではない。
 その幽霊があの子の母親かどうか確かめたかった。
 確かめてどうするのかは椿にも分からない。
 だけどもし、その幽霊がその子の母親で、話が出来るのなら話がしたかった。
 何を話すのかは分からない。
 だけど、会わせてあげられるなら、会わせてあげたいとも思った。
 居ても立ってもいられなかった。

 午後。昼食を終えて食堂から売店に戻る途中。また椿は客席の扉を開ける。

 ♪この夢がずっとずっと つづいてほしい
  わたしの恋は 輝いているわ

  ともに過ごしあのとき 胸にたぐりよせて
  歌いましょう さあ歌を あなたの 思い出の歌

 椿の耳に花組の歌が勢い良く飛び込んできた。
 春公演目前。花組の舞台稽古にも力が入っていた。
「すごい」
 思わず椿は声を上げる。
「みんな、一生懸命だからね」
 それに答えるようにかけられる声があった。
「大神さん」
 振り返リ椿。
 そこに大神が微笑んでいた。
「あっ! 大神さん!」
 と、椿は思い出したようにもう一度大神の名を呼んだ。
「えっ? どうしたんだい?」
 椿が突然大きな声を出すので、大神は少し驚く。
「あの、大神さんが見たっていう幽霊って、どんな感じでしたか? 顔立ちとか、服装とか、何でもいいんです。教えて下さい!」
 早口に、多少興奮気味に椿が捲くし立てる。
「えっ? そうだな。和服姿の中年の女性だったよ」
「それは前に聞きましたよぅ」
「う、う〜ん。でも、本当にそれくらいしか覚えていないんだ。気づいて声をかけようとしたら姿が消えてしまったからね……」
 申し訳なさそうに大神。
「他には何も覚えてないんですか?」
 それでももう一度椿が聞く。
「ごめんよ、椿ちゃん。ただ、じっと舞台を見つめていたのだけは、とても印象的だったな」
 それに大神がそう答えた。
「舞台を、ですか?」
 と、椿が聞きなおすと、
「ああ、とても舞台を楽しみにしているようにも見えたよ……」
 その時を思い出して、大神がそう締めくくる。
「舞台をですか……」
 椿がもう一度さっきと同じ言葉を口にすると、その幽霊が姿を見せたという『トの13番』の席をじっと見つめた。
 だが、そこにはやはり誰もおらず、花組の歌だけが客席に響いていた。
「さくらさん!もっと集中しなさい!」
 さくらに振り付けの龍子先生から檄が飛ぶ。
 春公演初日まであと少し。稽古も大詰めを迎えていた。

 その日の夕方も椿は客席に足を運んだが、幽霊と出会うことはなかった。
 それから毎日、暇を見つけては客席に顔を出してみるのだが、一向に幽霊とは出会えず、その度に椿は落胆した。
 そうして、何も進展がないままに、春公演初日を迎えることになった。



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