事件は突然起こった。
その日は久しぶりにマリアと大神揃って東雲の神社に出掛けられた。
2人が神社の中に入った途端、杏が2人に駆け寄ってきた。
「助けて、助けて下さい」杏はすっかり取り乱している。
「どうしたの?落ちつきなさい」マリアが声を荒らげ杏の肩を掴むんだ。
「桐子ちゃんが・・・」杏は涙目でマリアの顔を見上げると、か細い声でやっとそれだけ言う。
「桐子ちゃんが?」大神がマリアの代わりに聞き返した。
杏は言葉にするよりも早く、大神の腕を掴むと、腕を掴んだままに走り始めた。
「杏さん」大神が声を上げるが杏の涙声は言葉にならず、仕方なくそれに従って走り、マリアもそれに続いた。
杏は砂利道を走り、左側の木々の間にある細い道に大神とマリアを連れて行く。その先には確か小さな池があるはずだとマリアは思い出していた。
その小さな池の目の前まで来ると、杏はやっと大神の腕を離し、その指で池のほとりに立つ1本の木を指差した。
「桐子ちゃん!」マリアと大神がその木を見ると驚きの声を上げた。
見れば、桐子が高い木の枝の上で、あの子猫と共に泣きながら震えている。
また、子猫が木に登り、降りられなくなった所を桐子が助けに上がり、桐子も降りられなくなったという事は容易に想像がついた。なんとも間抜けな話だが、笑っていられる状況ではなかった。
桐子と子猫を支えている木の枝の直下では、冷たい水面が桐子と子猫の姿を映し出していた。時折、風に揺られ震える木の枝から落ちる木の葉が、水面に波紋を作っていた。
更にその枝が、今にも折れそうにミシミシと音を立てている。とても大神がその木に登り、桐子と子猫を救う事は出来ない。それこそ2人と1匹は揃って冷たい水の中にまっ逆さまだ。
「私があの時、‘子猫を危ない所に行かせちゃダメ’なんて言ったから、桐子ちゃん自分のせいだと思って、あんな高い木に登って子猫を助けようとしたんだわ」杏がその場に泣き崩れる。
「杏さん!自分を責めている場合じゃないでしょう!」マリアがその杏に檄を飛ばす。
「はしごか何か。杏さん、何かないですか!?」大神も興奮して杏に問う。
「いや!」杏は大神の大きな声で更に怯えてしまい、その問いに答えるどころではなかった。
ビシイィィ!
いきなり大きな音が響いた。木の枝がもう折れかけている。その枝に掴まっている桐子もバランスを崩し、木の枝にぶら下がる格好になった。子猫も必死に桐子の胸の辺りに爪を立て、しがみついている。
「おねーちゃーん!杏おねーちゃーん!!」桐子が必死に杏の名を呼んだ。
「桐子ちゃん・・・」杏がその声に反応して呟く。
杏は顔を上げ、桐子の姿を見つめる。ぶら下がっている桐子の真下は池。この季節、小さな子供がいきなり冷水に叩きこまれれば、心臓麻痺を起こすかもしれない。ただでさえ、今日は朝から曇り空で日が射さず、池には薄氷すら張っている。
「桐子ちゃん!」突然杏が叫んだ。
マリアと大神がその杏に驚いて杏の方に注意を払う。取り乱した人間は何をするか分からない。杏が池の中に飛び込み、桐子を受け止めようと待ち構えたり、木に登り始める事だって考えられたからだ。
だが、杏はただその場に立ち尽くし、池、その水面を見つめていた。桐子ではなく水面をだ。
マリアと大神が、杏が何をしたいのか考えるよりも早くその現象が起こった。
ゴッ!
本当にそんな音がして、池の水面が渦を巻き始めた。そしてそれは見る見る大きくなり、徐々に水面が盛り上がっていく。
同時に杏自身にも変化が見られた。その美しいさらさらと流れる黒髪が、しっとりとしたからすの濡れ羽色に変わる。艶やかに水分を帯び、徐々にカールしていく。水の霊気をその髪の1本1本に染み渡らせる。その髪型、『水狐』そのものだった。
「!」マリアは息を呑んだ。
「や、やめるんだ!杏さん!」大神もその力が水狐のものと同一であると気付き、『杏』にそう叫んだ。
「何言ってるの、桐子ちゃんを助けないと」だが、『彼女』の口から出た言葉はそれだった。
「え?」大神がそう言った時には、すでに池の上にはそれが完成していた。
「階段?」マリアの言った通り、池の水が階段を形作り、桐子がぶら下がっている木の枝に伸びている。
だが、勿論水の階段など上れるはずはない。
「マリアさん!」『彼女』がマリアの名を呼ぶ。
その体から感じるのは明らかに霊力そのものだった。『杏』に出会ってからずっと微塵も感じられなかった霊力が、今は痛いくらいに伝わってくる。それは『水狐』から感じられたものと同一の霊波だが、目の前の女性は『水狐』ではない。
「はいっ!」『彼女』のやりたい事を理解して、マリアが『彼女』の言葉に力強く頷いた。
そして、全身の霊力を高め始める。
「はあ!」気合いと共に突き出された両腕から、マリアの体中の霊力がほとばしった。
ピキッ!ピキピキ!ビキビキビキビキビキッ!
瞬間、『彼女』が作り出した水の階段が、マリアの霊力の為その分子運動を急激に低下させ、氷の階段へと転化した。水面の一部も一緒に凍りついている。
「隊長!」
「よし!」
見事なまでの呼吸で大神はその凍りついた水面に駆け出し、氷の階段に飛び乗ると、桐子の待つ木の枝までそれを駆け上がった。
そしてそこに辿り着くと、泣きじゃくる桐子を抱きかかえ再び氷の階段を駆け下り、凍りついた池に着地する。急いで土のある地面まで戻ると、「よし、いいぞ」と2人に声を掛けた。
その途端2人の体を覆っていた凄まじいまでの霊力がしぼむように薄れていき、氷の階段も池の中に崩れ落ちていった。
水と氷がぶつかり合う激しい音が聞こえ、空高く水飛沫が上がる。その飛沫がマリアの顔に当たり、マリアは思わず体を震わせた。
大神も桐子を抱いたままその光景を見つめ、「はあはあ」と息を切らしている。
ドサッ!
マリアの横にいた『彼女』が地面に倒れこんだ。
「杏さん!」マリアが叫び、近寄り抱き起こす。
「杏さん」大神も桐子を抱いたまま『彼女』に近寄った。
桐子は大神の腕の中でまだ泣きじゃくっている。子猫はその桐子の胸にしがみついていた。
『彼女』はマリアに抱き起こされると、目をそっと開け、大神の腕の中にいる桐子を確認すると、ふっと微笑み、次にマリアと大神を見つめた。
「大神一郎・・・。マリア・タチバナか・・・」そう呟いたかと思うと、『彼女』は目を閉じ、意識を失った。
杏の部屋。
布団の上に横たわる杏をマリア、大神、そして東雲が見つめていた。
杏の髪の毛は、しっとりとしたからすの濡れ羽色から、いつものさらさらとした黒髪に戻っている。だが、その体からは確かな霊力が感じられた。
マリアと杏の凄まじい霊力は、当然東雲も感じていた。杏の霊力は、東雲が杏を助けたあの日に感じた霊力と同じものであったが、比べものにならない程強いものだった。
マリアにしても霊力を高める霊子甲冑に乗っている時ならまだしも、生身であれほどの霊力を発した事は今まで1度もなかった。
それというのも、ここが神社という極めて霊的な力の集まりやすい場所だったのと、2人のすぐ側に‘触媒’となるべく存在、大神がいたのが大きな理由だった。
そういった意味で、桐子はとてもラッキーだったと言える。
その桐子もショックと泣きつかれたのとで、杏の隣りの布団で同じ様に横になって眠っていた。その桐子の横には、自分がこの事件の原因だと分かっているのかどうか、子猫もちゃっかりと体を丸めて目を閉じていた。
「やはり、記憶が戻ったのでしょうか?」東雲が杏の顔を見たままに口を開いた。
「あの言い方、おそらく間違いないでしょう」杏が気を失う前に自分達の名前を呼んだのを思い出し、マリアがそれに答える。
今まで眠っていた霊力の回復に付随して、記憶も回復した。気を失ってしまったのは、回復後いきなりに強力な霊力を放出し、精神的な負担が大きかったからだろうと、「推測ですが」と付け加えてマリアが東雲に説明した。
大神もマリアの言葉に頷いて、杏の顔を見つめていた。
不意に杏の瞼がひくひくすると、続いてその目がぱちりと開けられた。
「また、私の寝顔を見ていたの?ぼうや」そして自分を見つめている大神に気がつくと、杏は開口1番そう言った。
「・・・・・」大神はその言葉に何か言おうとして口を開いたが、それに対する答えは出なかった。その物言いには聞き覚えがある。ぼうや、『水狐』が大神の事をそう呼んでいた。そして‘また’と言った意味。大神が熱海でなくなったキネマトロンを探している時、部屋で眠っているサキの寝顔を見つめていてマリアにとがめられた事がある。それを覚えている。つまり記憶が戻っているという事だ。
「杏!」東雲が杏が気がついた事に喜びの声を上げる。
「・・・・・」それを聞き、今度は杏が何も言えなかった。
記憶を失っていた間の記憶は残っている。それゆえその間杏に東雲が良くしてくれた事を杏は知っている。それなのに自分の正体が実は黒鬼会の水狐だと思い出し、素直に喜べないのだった。
「・・・・・殺すの?」か細い声の後、杏が目を伏せる。
「・・・・・」今度はマリアも言葉がなかった。
「あなた達を騙し、米田を狙撃して、レニを利用した私を。・・・掴まえておいて、何もしない訳ないわね」
「やめて下さい」不意に東雲が声を上げた。
「この娘が昔何をしたのかは、聞きました。でも、あんな酷い火傷をして、記憶までなくして・・・もう十分罪は償ったではありませんか?さっきだって、この娘がいなければ桐子ちゃんは助からなかった。もういいでしょう・・・」取り乱す、とまではいかないが多少焦りのようなものが感じられる言い方だった。だが、がんとした意思がそこには現れていた。
‘杏に手を出すと言うのなら、覚悟は出来ている’まるでそう言っている様だった。本当の父親の様に。
「なぜ桐子ちゃんを助けたの?」不意にマリアが杏に聞く。
「え?」杏がマリアの方に顔を上げる。
だが、質問の意味が分からない風に、マリアの顔を見つめていたが、しばらくしてようやく口を開いた。
「分からないわ。勝手に体が動いたのよ・・・・・」言うとまた杏は目を伏せる。
「あなたは桐子ちゃんに助けを求められた、だから助けたのよ。人として最も大切な事の1つだわ。勝手に体が動いたという事はあなたの体はまだそれを忘れてはいなかったという事だわ。水狐として生きていたあなたなら決して助けたりはしなかったでしょう・・・。記憶をなくす代わりに、あなたは桐子ちゃんに大切な事を思い出させてもらったようね・・・」マリアが杏に言う。
「んん・・・」可愛らしい声がして、杏の横で桐子が目を覚ました。
体を起こしきょろきょろと周りを見まわすと、すぐ横にいる杏に気が付く。じっと杏を見つめると、桐子の瞳にじわじわと涙が溜まっていくのが分かる。それが一杯になると今度は「ひっくひっく」と声を上ずらせて杏に抱きついて泣き出した。さっきの恐怖感を思い出したのだろう。
「わーん。おねーちゃーん」杏の胸に顔を埋め、桐子は声も高々に泣きじゃくった。
「桐子ちゃん・・・」杏は小さくそう言って桐子を見つめると、少し戸惑ってからそっと自分の手を桐子の背中に回し、抱きしめてやった。
「みゃー」と側で眠っていた子猫も、桐子の大きな泣き声に目を覚ますとその2人に擦り寄った。
「もう大丈夫ですね」マリアが大神にそう言うと、大神もそれに静かに頷いた。
結局、『彼女』は『杏』のまま、『水狐』でも『影山サキ』でもなく、『杏』として東雲の神社にそのまま残る事になった。
桐子の助けてという言葉。それが『彼女』の心に響いた。記憶をなくした『彼女』の心に響いた小さな叫び。それが本当の『彼女』を目覚めさせた。マリアも大神もそう思った。
別れ際に東雲がマリアと大神に告げた。
「私には、幼い頃に病気で亡くした娘がいました。生きていれば丁度彼女くらいになっていた筈です」
その娘の名前が杏。それゆえ記憶をなくしていた彼女を、娘として迎え入れたのだと告白した。
神社から帝劇への帰り道。空は相変わらず雲が覆っていた。
「すっかり遅くなってしまいましたね。もう夕方だわ」マリアがその曇り空を見上げると言った。
「夕方から売店の整理手伝う約束してたんだ。急いで帰らなくっちゃ」大神が夕方と言う言葉で、椿との約束を思い出した。
「どうします?」マリアがそれだけ大神に言う。
「ん?ああ。皆分かってくれるよ」マリアの質問に大神が答える。
今回の件を花組の、いや帝劇の皆に話すかどうか?とマリアは聞いたのだ。
「米田支配人とかえでさんに怒られるのは覚悟しておかなくちゃね」と大神は笑った。
「隊長」とマリア。
「ん?」それに大神が答える。
「私思うんです。もしかしたら彼女が花組の隊員で、私が黒鬼会の一員になっていた事もあり得るんじゃないかって」
「え!」大神がマリアの言葉に驚く。
「もし、彼女が京極ではなくあやめさんと出会っていたら。もし、私があやめさんより先に京極に出会っていたら。その時は分からなかったんじゃないかって」
「そんな事、想像したくないな」大神は言うと苦笑した。
「私達は本当の彼女の心に気付いてあげられませんでした。けど、東雲さんや桐子ちゃんのおかげで彼女は救われたような気がします。彼女にとってのあやめさんは桐子ちゃんだったのかもしれませんね。それで、良かったのかもしれません」そしてマリアは微笑んだ。
「ああ」今度は大神もマリアと一緒に微笑んだ。
静かに風が吹き、西の空を覆っていた雲が流れると、パァッと夕日が顔を出した。
「わあ、隊長」それを見つけてマリアが大神に声を掛ける。
「ん?」マリアに頷いてその視線に大神が目を合わせると、マリアが言葉を続けた。
「ほら、西の空があんなにきれい」