マリアは今日の日記にどう書こうか考えたまま、その白い紙を見つめて、神社からの帰り道に大神から聞いた話を思い出していた。
大神に湿布を貼った『彼女』の話以外にも、大神は‘今思えば’と始めに言ってから、幾つか『彼女』について思い出した事を話してくれたのだ。
『影山サキ』が『水狐』としてレニをさらい、連れ去る日。その日の夕方に大神は来賓客玄関で『影山サキ』と偶然出くわしている。
その時『影山サキ』は大神にこんなセリフを言ったそうだ。
「大神さんと初めて会ったのもここだったわね」
それに大神が「そうだね」と答えると、
「月日のたつのは早いものだわ」と言ってその場を去ったという。
大神はその時の『影山サキ』の言葉の意味や心情を理解する事は出来なかったが、『杏』に会ってその意味が分かったような気がすると言った。
つまり、スパイとして潜り込んだにもかかわらず、『彼女』は帝劇から去る事に寂しさや名残惜しさと言う感慨を感じていたのではないか?大神はそう結論付けたのだ。
確かにスパイとして潜入した『影山サキ』なら、レニという土産を持って、唯一信頼していた京極の役に立てる事に嬉しさを感じるのが普通である。
だが、それなら『彼女』が大神に漏らしたセリフは些か不可解と思えた。『彼女』は自分でも気付かないうちに帝劇の皆を仲間と認めてしまっていたのかもしれない。騙されていたとはいえ花組は『影山サキ』を仲間と思っていた。『彼女』がそれに感化されていても不思議ではない。ただ、それ以上に京極への想いが強く、そしてそれに気付くよりも早く、花組との戦いに突入してしまったのではないだろうか?
だとしたら、大神はそう考えると自分に信号を送ってきてくれていた『彼女』に気付いてやれなかった事に、深い悲しみと自責の念を強く感じた。
そしてマリアは『水狐』について思い出す。
あの日、池袋での『水狐』との戦いの前、大神が『水狐』言った言葉。
「水狐・・・いや、サキくん。もう戻れないのか?俺達の仲間に」大神が言うと、
「仲間仲間、よるとさわるとその言葉、虫酸が走るわね。私には仲間など必要ないわ。あの方さえいてくださればそれで十分よ。正義なんて偽善よ、愛なんて弱い心よ」『水狐』はそう叫んだ。
ふと、マリアはそれを思い出し、なぜその時昔の自分を思い出さなかったのだろうと考えた。
ロシアからニューヨークに渡ってきた頃のマリア。その頃のマリアは他人など信じてはいなかったし、自分すら信じてはいなかった。
仲間もいない、敵すらいない。あるのはただ破滅を望む自分と、血と硝煙と、アルコールの匂いだけ。
どうしてマリアは当時自分がそうだったのか、今は良く分かっている。
逃げていたのだ。
愛する人を戦争で失い、その人を守る事も共に死ぬ事も出来なかったマリア。その償いの為に自分はこのつらさを受け入れる。そう言い訳してそのつらさを乗り越え愛する人の為に自分は生きようと思えなかった。生きる事より、破滅の道を選ぶ事の方が楽だと、本能的に知っていたからだ。
その破滅に向かう為にマリアは自ら孤独を選んだ。
だが、『彼女』はどうだったのだろう?マリアは想像する。『水狐』が言った言葉の意味を。
仲間という言葉に対する多大なる嫌悪感。正義や愛情の真っ向からの否定。それでいて、‘あの方さえいてくだされば’というすがるようなセリフ。
『彼女』の生い立ちはマリアには分からない。どう生きてきて、どんな目に遭ってきたのか。だが、余程の事がない限りそんなセリフは言えない。
もしかしたら幼い頃に両親を失い、頼れる者もなく、生きる術も知らず、ただ孤独と絶望に震える毎日。それでも生きて来れたのは、時折見せる人々の同情や見返りを求める優しさだったのかもしれない。
そして、そういった人間を信用する度に裏切られ、裏切られ、裏切られ。いつしか『彼女』は誰一人信じられなくなってしまったのではないか。
それでも人は孤独が怖い。つらい。淋しい。それに京極がつけこんだとしたら。『彼女』が京極に利用されるのに十分なお膳立ては出来ていたのかもしれない。
マリアが自ら孤独を望み、生きる事から逃げていたのに対し、『彼女』は生きることに必死になり、その結果孤独に取り憑かれていたとしたら。
そして出会った人物が、マリアはあやめ、『彼女』は京極。
何という運命のむごさか。マリアはそこまで考えて、深くため息をついた。
「隊長だけじゃない。私こそ『彼女』の言葉に気づいてあげるべきだったのよ・・・」
それからしばらくは、マリアは稽古、大神は伝票整理や雑用で2人揃って東雲の神社に出掛かる事はなかなか出来なかったが、それでも日に1度は、どちらかが杏の様子を見に出掛けるようにしていた。
まだ春公演の準備期間中でそんな時間も作れたが、公演が始まってしまえば交代で様子を見に行く事すらままならなくなる。加えて、流石にそろそろ帝劇の皆も毎日の様にマリアと大神が出掛けて行くのを見て、怪訝に思い始める頃だろう。
そう思い始めた頃。マリアが帝劇を出て行こうとすると、「どこに行くの?」そう声が掛かった。
「・・・レニ」マリアが振り向くと、レニが真っ直ぐにマリアを見つめていた。
「寒いのに、最近良く出掛けるね」レニが思った事をそのまま口に出す。
確かに最近底冷えがひどく、出掛けるにはつらい寒さだった。寒さに弱い織姫は、ここ数日外出はおろか、中庭にすら出ていない。
「え?ええ、そうね。でも、公演の準備で色々忙しくて」マリアが咄嗟にそう言う。
「・・・そう。何か手伝おうか?」レニが顔色を変える事なく、マリアの言葉にそう返した。
「いえ、1人で大丈夫よ」マリアは精一杯平静を装い笑顔を見せる。
「・・・・・分かった」レニは少し間を置いてからそう答えると、最後に微かだが笑顔を見せその場から立ち去った。
「レニ・・・」その笑顔を見て、マリアは思わずそう呟いた。
普通の相手なら、女優マリア・タチバナの演技に素直にその言葉を信じただろう。だが、相手はレニ・ミルヒシュトラーセ。寝食を共にする同じ花組の仲間であり、ましてやレニは世界的に有名な女優の1人だ。マリアの演技に気付いてもおかしくはない。そして、マリアはレニに嘘を気付かれた、と確信した。
なぜ分かるのかと言われれば、‘何となく’としか言いようがないが、仲間のちょっとした表情や行動は、時として言葉よりも明確に物事を伝える。
マリアがレニが気付いたと分かったように、レニもマリアの嘘に気付いたと考えるのは至極当たり前の事だった。
だが、レニはマリアに微笑んで立ち去った。
マリアが「1人で大丈夫よ」そう言ったのが理由だろう。
レニはもう昔のレニではない。花組の一員。仲間の1人だ。マリアとレニは仲間。そのマリアがレニに「大丈夫」と言った。それならば大丈夫なのだ、何があったのか知らないが自分は知らなくて良い事なのだ、そうレニは思ったのだ。レニはマリアを心から信頼しているから。逆に必要とされれば何事であろうと協力を惜しまないだろう。
確かにカンナやさくら辺りなら無理矢理にでも聞き出して、手助けをすると言い出すタイプだが、レニはそうではない。それも仲間、これも仲間だ。
今回の件は特にレニには言いづらい。レニをあんな目に遭わせた『水狐』が生きていたのだ。同じ理由でアイリスにも気付かれてはやっかいだった。
だからこそ、レニの今の態度にマリアは胸を打たれた。
いつまでもこのままにしておく訳にはいかない。そろそろ答えを出さなくては。マリアはそう強く感じた。