太正十六年一月。



 朝、レニの体内時計が起床のベルを鳴らす。
 数回瞬きをすると、ベッドの中でうーんと伸びをする。
 上半身を起こすと掛け布団を捲くり、そこから抜け出した。
 いつもの服を用意すると、パジャマを脱いでそれに着替える。
 窓に掛かる青いカーテンをシャッと開け、光を部屋に取り込む。続いて窓も開放すると、今度は新しい空気が部屋に流れ込んだ。
 気持ちの良い光と風をその身に感じると、反対側、部屋のドアに向かう。
 途中、机の上に置いている顔が映るだけの小さな鏡台が目に留まり、それを覗き込むと指先で髪の乱れを整える。
 鏡の中の自分に満足すると、今度こそドアを開けて部屋を後にした。



 花組全員が持ち回りでしていたフントの世話は、いつの間にかそのほとんどをレニが担当するようになっていた。
 織姫やすみれが朝起きれずにフントを腹ペコにさせたり、アイリスやカンナが一緒になって遊んでばかりいたのがその原因だ。
 紅蘭に至っては大神の代わりにフントを実験台にしようとし、それを知ったレニは真剣になって怒ったものだった。
(俺が実験台にされても怒ってくれないのにと大神は嘆いたが)
 フント自身もレニに一番懐いており、自然とフントの世話はレニに決まった。
 厨房で専用の器に餌をよそうと、それを持って中庭に向かう。
 以前はどうして秘密部隊の隊員の任務に犬の世話が含まれるのだろうと疑問に思ったこともあったが、すでにかけがえのない友達となったフントの前では、そんな疑問があったことすら忘れてしまうほどだった。
 大神不在の間に大きく成長したフントの小屋もレニが作り直し、その屋根や餌を入れる器も、レニの趣味で青く塗られていた。
 中庭へと続く廊下で、声をかけられた。
「おはよう。レニ」
 その声にレニが振り返ると、鮮やかな金髪の下で微笑む顔があった。
「……おはよう」
 目線よりも少し高いところにあるその笑顔にレニもそう返した。
「私も一緒にいいかしら?」
 レニが手に持つ器から、今からフントのところへ行くのだと知り、ラチェットがそう聞いてきた。
「……いいけど?」
 それにレニが不思議そうな顔で返事をする。
「良く考えたらここへ来てからあの犬と遊んだことがないのよ。これからは仲良くしてもらおうと思って」
 ヤフキエル事件も落着し、海神別荘も好評の内にその幕を下ろした。
 体験入隊のラチェットが紐育へ帰る日もそう遠くはないだろうが、その通達はまだない。
「わかった」
 レニはラチェットの言葉に素直にそう返した。



 レニが器を地面に置くと、フントはてくてくとそれに近づいてくる。
「待て」
 レニがフントに合図すると、フントは大人しくお座りをし、尻尾を振って次の合図を待った。
「良し」
 そのフントを見て、今度はそう合図すると、フントは嬉しそうに一声鳴いてから器に口をつけた。
「へぇ、良く訓練されているわね」
 レニの後ろでその様子を見ていたラチェットが、感心して声を上げた。
「小さい頃から教えてきたから」
 フントが食べる様子を見ながら、レニが微笑して答える。
「そうなの」
 ラチェットはレニの後ろから隣に移動すると、長い髪が地面に触れないよう肩から前に回し、膝の上に抱えるようにしてしゃがんだ。
「何か芸もできるのかしら?」
 ラチェットが髪の先を弄びながら聞く。
「お手やお座りくらいなら」
 レニがそれに答えると、
「そう。えらいのね、シューティングスター」
 ラチェットはそう言って、食事中の犬の頭を撫でてやった。
「……シューティングスター?」
 レニがそのラチェットの言葉に反応する。
「いい名前でしょう? 今考えたの。レニも気に入った?」
 にこにことレニを見つめる。
「気に入らない。この子の名前はフントっていうんだ」
 少し拗ねたような顔でレニがそう返す。
「あら。花組はみんな好きな名前でこの子のことを呼んでいるって聞いたわ? 私も花組の一員なんだし、名前をつけてもいいのよね?」
 少し驚いたような、それでいてどこかわざとらしいような表情。
「みんなは勝手に呼んでるけど、この子の名前は昔からフントなんだ」
「フントってドイツ語で犬のことよね? あなたがつけたの?」
「ドイツ語では犬のことだけど、日本語ではこの子の名前」
「でも、あなたしかそう呼んでいないんでしょう?」
「隊長も呼んでる」
「ふーん」
 そこで、ラチェットはじっとレニを見つめた。
「隊長、か……」
「……何?」
 それに、レニもラチェットを見つめる。
「私のことは一度も隊長って呼んでくれたことなかったのに……」
 今度はラチェットが少し拗ねたような表情になった。
「……そ、それは、星組では階級にあまり意味がなかったし、そういう命令も受けていなかった。第一、司令であるかえでさんのことだって名前で呼んでいたから……」
 なんとなく、照れくささや後ろめたさ、複雑な感情がレニの舌をおぼつかせる。
「ふふふ。冗談よ」
 そのレニの様子がおかしくて、ラチェットが楽しそうに笑った。
「もう元星組であることにわだかまりは持っていないもの。私は今花組の一員なんだから……」
 本当に曇りのない笑顔をラチェットは見せた。
「そうよね、レニ」
「……ああ。……そうだね、ラチェット」
 レニもラチェットにそう微笑んだ。
「だからレニ」
 と、急にラチェットがきりっとした表情になる。
「花組の一員なんだもの。この子のことシューティングスターって呼んでもいいわよね?」
 そんなことを言い出した。
「ダメ。フント」
 レニも真剣な表情で言い返す。
「そんなこと言わないで。ね? いいわよね? シューティングスター?」
 いいわよねのところでフントに向き直ると、ラチェットは本人に同意を求める。
「わん」
 と、フントがそれに返事をした。
「ほら。この子も気に入ってくれたみたい」
 嬉しそうにラチェット。
「そんなことない。フントも返事しないで」
 レニがそう言ってフントを叱る。
「くぅーん」
 それでフントはうなだれてしまった。
「あら。可哀想に」
 レニとフントのやりとりにラチェットは思わずそう言うが、その顔はどこか楽しげだ。
「レニったらいつからこんなに強情になったのかしら。ね、シューティングスター」
 それからフントに微笑むと、レニを横目にそう言った。



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