子供と犬の躾はドイツ人にまかせよ
太正十四年七月。
朝、レニの体内時計が起床のベルを鳴らす。
パチリと目を開けると、椅子ごと体を包んでいる毛布から抜け出るように立ち上がる。
毛布は自然と椅子に掛けられる形になり、そこがそのまま毛布の置き場所になる。
着衣を着たままに眠るレニは着替えることもなく、真っ直ぐにドアに向かうとそのまま部屋を出た。
花組隊長大神一郎が暴走車より救ったことがきっかけで帝劇の一員となった白い仔犬は、その世話を花組隊員の持ち回りですることが決まった。
今日の世話係はレニだ。
厨房で専用の器に餌をよそうと、それを持って中庭に向かう。
戦闘を主な任務としている秘密部隊の隊員が、なぜ犬の世話をしなくてはならないのかレニには疑問だったが、命令とあらば仕方がなかった。
花組には当番制があり、楽屋や浴室の掃除も順番で回ってきた。
帝劇には花組の他、風組、月組、夢組の各面々もそれぞれの役割を持って働いていたが、犬の世話や部屋の掃除が花組の分担であることは理解できなかった。
中庭へと続く廊下で、声をかけられた。
「おはよう。レニ」
その声にレニが振り返ると、鮮やかな金髪の下で微笑む顔があった。
「……おはよう」
目線よりもずいぶん高いところにあるその笑顔にレニもそう返した。
「今からあの子に餌をあげに行くの?」
笑顔のままにマリアが小首をかしげる。
「……うん」
レニは無表情に答えた。
「私も一緒に行っていいかしら?」
「……構わない。……けど、餌をやるのに二人で行く必要はないと思う」
「そうね。でも、あの子の世話係の順番が私はまだなの。それまでに一度どんな風にしたらいいのか見ておきたくて。……お邪魔かしら?」
マリアはつい先日帰国したばかりだ。
そのため今まで花組七人で持ち回りしていた掃除やフントの世話係も、改めて当番の順番を決めなおした。
そのフントの世話係をマリアはまだ経験していない。
「いや、構わない」
レニはマリアの言葉にもう一度そう返した。
レニが器を地面に置くと、仔犬はとことことそれに近づいてくる。
「待て」
レニがその仔犬に合図すると、仔犬はそわそわした様子でお座りをし、尻尾を振って次の合図を待った。
「良し」
その仔犬を見て、今度はそう合図すると、仔犬は嬉しそうに器に飛びついて餌を食べ始めた。
「へー、すごいじゃない」
レニの後ろでその様子を見ていたマリアが、感嘆の声を上げた。
「中庭はお客さんの目にも留まるし打ち上げをすることもあるから、犬を飼うならちゃんと躾けなきゃダメだって。隊長の命令」
マリアを振り返りはせず、仔犬が食べる様子を眺めながら言う。
仔犬が食べる様子、というよりは食べ終わるのを待っていた。空いた器を洗うのも世話係の仕事だからだ。
「そう。それにしても頭のいい子ね。ええと、名前はなんて言ったかしら?」
言いながら、マリアはレニの後ろから隣に移動すると、レニと同じようにしゃがんだ。
それから手を伸ばして、「可愛いわね」と言いながら仔犬の頭を撫でる。
仔犬はそれを気にするでもなく、一心不乱に食事を続けた。
「……みんな、好きな名前で呼んでる」
相変わらず仔犬を見つめながらレニが答える。
「そうなの? じゃあ、私も好きな名前で呼んじゃおうかしら」
言うと、レニの横顔を見つめた。
「…………」
沈黙が、「好きにすれば」と言っているようだった。
「んー、『ポーチカ』なんてどうかしら? どう思う、レニ?」
考えるそぶりの後、再びレニを見つめる。
「……別に。マリアがいいと思うのならその名前で呼ぶといい」
相変わらず仔犬を見つめたまま、素っ気ない。
「……ねぇ、あなたはなんて呼んでいるの?」
ふと、マリアが聞く。
「……フント」
「フント?」
「ドイツ語で犬のこと」
「……そ、そうなの」
少しリアクションに困った。
やがて、仔犬が食事を終え器は空になる。
レニがその器を手に取ると、仔犬は名残惜しそうにそれを見つめた。
「じゃ、ボクはこれで」
と、レニが立ち上がる。
「ええ、ありがとう。参考になったわ」
マリアも立ち上がるとそう声をかけた。
それには何も言わず、レニは廊下へと続くドアに歩き始めた。
「わんわん」
そのレニの背中に仔犬が二つ鳴くと、とことこと後を追いかける。
「まだ食べたりないのかしら?」
マリアがそれを見てそうつぶやくが、レニの足元にまとわりつく仔犬を見ていると、もう一つの可能性の方が濃厚のように思えた。
やがてレニはドアを開け建物の中に入り、中庭に置いてきぼりにされた仔犬は寂しそうに喉を鳴らした。
マリアはその仔犬に近づくと、その前にしゃがむ。
それに、仔犬は愛想良く尻尾を振って答えた。
「こんなに可愛いのに」
そう言うと、マリアは仔犬の頭を撫でてやった。