太正二十年十月。
朝、レニの体内時計が起床のベルを鳴らす。
目は覚ましたが、目だけを開けて、体は起こさず横になったままでいる。
視線は隣に眠る人物に向けられ、その無邪気とも取れる寝顔を見つめていた。
すうっと息を吸い込むと、パジャマ代わりにしているお揃いのYシャツ越しに、彼の匂いがした。
同時にその体からは温もりが伝わり、言いようのない安心感と幸福感がレニを包んだ。
レニはくすっと微笑むと、彼を起こさないように小声で「おはよう」と言った。
音を立てないようにそっとベッドから抜け出すと、やはり静かにYシャツを脱ぎ、普段着に着替える。
清潔な白のブラウスに膝まであるフレアスカート。その上に若草色のカーディガンを羽織った。
鏡の前で髪を梳かすと、全身を映して身だしなみをチェックする。
人に見られても夫が笑われない姿だと確認すると、部屋のドアに向かった。
ドアノブに手をかけたところで、最愛の人が寝息を立てるベッドにもう一度目を向ける。
多忙で疲れている彼を起こさないように、静かにドアを開けるとそっと部屋の外へ出た。
中庭のアイドルもずいぶんと大人になり、今では素敵な伴侶と子供達に囲まれている。
フントのお相手の名前もレニが決めたのだが、やはり花組は好き勝手に名前をつけて呼んだ。
一匹の時ならまだ良かったが、二匹になるともう訳が分からず、側から聞いていると一体帝劇では何匹犬を飼っているのかと思えた。
二匹の間に子供が生まれると、上手い具合に六匹生まれた子供達に花組がそれぞれ好きな名前をつけ、長年の命名大戦に一応の終止符が打たれた。
ただ、数年前に引退した神崎すみれだけは、帝劇に遊びに来るたびに結局自分だけ名前をつけることができなかったとぼやいた。
それですみれは「レニに子供が生まれたらわたくしに名前をつけさせてくれませんこと?」と冗談半分に言ったのだが、レニは「米田さんにつけてもらうんだからダメ」とこれを受け入れなかった。
そんな、中庭で暮らす多国籍な名前を持つフント一家の世話は相変わらずレニの役目だった。
厨房で専用の器に餌をよそうと、それを台車に載せて中庭に向かう。
八匹分の器を運ぶのはさすがに一苦労だったが、紅蘭が作ってくれた台車のおかげでずいぶんと楽になった。
最初は自走式にしようとか食器洗い装置をつけようとか紅蘭は言ったが、長年の経験からやんわりとレニはそれを断った。
中庭へと続く廊下で、声をかけられた。
「おはよう。レニ」
その声にレニが振り返ると、鮮やかな金髪の下で微笑む顔があった。
「おはよう」
目線よりも少し高いところにあるその笑顔にレニも笑顔を返した。
「あの子達のところへ行くのか?」
レニの運ぶ台車に、グリシーヌがそう聞いてきた。
「うん」
レニはそう言ってうなずいた。
グリシーヌは世界防衛会議に出席するために帝都東京を訪れていた。
賢人機関が中心となり定期的に行われるその秘密会議に、巴里華撃団代表としてグリシーヌ、紐育華撃団代表としてラチェット、そして帝国華撃団代表としては大神一郎が参加していた。
無論、今回の開催地はここ帝都東京。
そこで、グリシーヌとラチェットはこの帝劇に宿泊しているのだ。
「そうか。……その、私も同行しても構わぬか?」
グリシーヌが遠慮がちに口を開く。
グリシーヌの動物好きは公然の秘密だ。
今回も帝劇に着いてからは、中庭のフント一家をしきりに気にしていた。
それだから、レニはすぐにグリシーヌもフント達に餌をあげたいのだとわかった。
「うん。手伝ってくれる?」
レニはグリシーヌの言葉に笑顔でそう答えた。
レニがグリシーヌに手伝ってもらいながら台車から取り出した器を犬の数だけ地面に並べると、フント一家はそれぞれが自分の器を見つけてそれに歩み寄る。
「待て」
レニがフント一家に合図すると、フント一家はそれぞれの器の前でお座りする。
フントは落ち着いた様子で次の合図を待つが、子供達は皆そわそわした様子で尻尾を振っている。
そこでレニがグリシーヌに次の合図を教えると、グリシーヌがそれを実行する。
「良し」
グリシーヌが教わったとおりにそう言うと、フント一家は一斉に朝食を開始した。
「おおう。素晴らしい!」
そのフント一家の様子にグリシーヌは目を輝かせた。
「良く躾けられているではないか。感心した。レニが教えたのか?」
フント一家の食事風景を眺めながら、隣にしゃがむレニにそう訊ねる。
「うん。でも、難しいことじゃないよ。秋田犬は元々頭のいい犬種だし、人の言うことを良く聞くんだ」
「いやいや、それだけではあるまい。愛情がなければ動物を飼いならすことはできぬ。レニが可愛がってやったからこそ、言うことを聞くようになったのであろう」
微笑してレニを見つめた。
「……そうだね」
それに、レニも微笑してそう答えた。
「そういえば、アレはできるようになったのか?」
唐突にグリシーヌが何か思い出す。
「アレ?」
レニは首をかしげた。
「ほら、以前コクリコが来た時に仔犬達に教えたのであろう? こう三匹が下になって、上に二匹一匹と……」
ジェスチャーを交えながら説明する。
「ああ。わんわんピラミッド」
それでレニが思い出した。
「そう。それだ」
嬉しそうにグリシーヌ。
「アレはやっぱり無理だったよ。難しいみたい」
レニが肩をすくめる。
「そうか……。それは残念だ……」
グリシーヌは肩を落とした。
「でも、最近ダンスを覚えたんだ。曲に合わせて仔犬達が飛んだり跳ねたりくるくる回ったりするんだよ。すごく可愛いんだ」
レニが満面の笑みを見せる。
「なんと! それは真か!?」
驚いた後に、見たくてたまらないという表情になった。
「あはは。じゃあ、楽屋の掃除をしないといけないから、その後でやってもらおう」
グリシーヌの表情に思わず笑い言うと、仔犬達に「よろしくね、お前達」と声をかけた。
「期待しているぞ」
グリシーヌも嬉しそうに、一匹ずづ順番にその頭を撫でてやった。
「だが、楽屋の掃除などしておるのか? そんなこと他の者に任せればよかろう?」
続いて、グリシーヌが眉をひそめると、レニの言葉のその部分に質問した。
「うん。でも、昔から楽屋やお風呂の掃除は花組の仕事だし……」
そのグリシーヌにレニが答える。
「それに、帝劇はボクの家だから」
それからそう続けた。
「そうか」
レニの言葉にグリシーヌは納得した表情で微笑した。
「よしよし。良く食べたね」
二人の会話の間にフント一家の朝食も終わり、器はそれぞれすっかり綺麗になっていた。
レニはそれを台車に片付け始める。
「ふふ。レニはもういつ母親になっても大丈夫なようだな」
フントや仔犬達に優しく話しかけるレニに、グリシーヌがそんなことを言う。
「そ、そんなこと……。犬と人間では違うんだし……」
いきなりの言葉に、レニは少し赤くなった。
「髪も伸びて女らしくなったしな。ラチェットなど短くなったというに」
言うと、グリシーヌは声を出して笑った。
大神と結婚して戦いをやめたレニは、美しい銀髪を長く伸ばし、今では背中まで掛かるほどだった。
一方で久しぶりに会うラチェットは、あの腰よりも長い美しいブロンドをばっさりと切り落とし、ベリーショートに仕上げていた。
驚くレニやグリシーヌ達を余所に、当のラチェットは「頭が軽くなったわ」と笑っていた。
紐育へ戻ってからのラチェットは、少し開放的になったようだ。
「もう、何ヶ月になる?」
少し真面目な表情になり、グリシーヌが聞く。
「……もうすぐ四ヶ月」
赤くした頬をそのままに、レニはそう答えた。
レニのそのお腹には、二人の愛の結晶が宿っている。
「元気な子が生まれると良いな」
「……うん」
「まあ、レニと隊長の子なら心配はあるまい」
「……ありがとう」
照れながらも、幸せそうな笑顔をレニは見せた。
「ところで、その隊長はまだ寝ておるのか?」
思い出したようにグリシーヌ。
「うん。疲れてるみたい。今日は午後まで予定がないから、ゆっくり寝かせておいてあげようと思って」
「まったく、隊長はレニと結婚してから少し甘えているのではないか? レニももう少し厳しくしてやっても良いのだ」
少し呆れるような口調。
「でも、昨日の会議は遅くまでかかったんでしょう? 夜中に部屋に戻ってきたから」
「うむ。確かに少し長引いたが、巴里から来て同じ会議に出席した私がこうして起床しておるのだ。トーキョーの隊長がまだ寝ていてどうする。ラチェットもすでに起きていたぞ。隣から音楽が聞こえてきておったでな」
「そうなんだ。そういえば、マリアにも最近隊長の起床時間が遅いって言われたことがある……」
「わんわん」
と、そこで仔犬の一匹が声を上げた。
「よしよし。いい子だ」
グリシーヌはそう言うと、その仔犬を抱き上げる。
「ふふ。それにしても、こうしてこのフント一家を見ていると、あの諺が本当だと実感するな。隊長もレニに甘えておるし、子供が生まれたら躾はレニがした方が良いと思うぞ」
それから、そんなことを言った。
「あの諺?」
レニはその言葉の意味がわからずに、そう言って首をかしげる。
「レニも一度くらいは聞いたことがあるのではないか? 欧州にはこんな諺があろう」
腕の中の仔犬をあやしながら、グリシーヌがレニに微笑んだ。