昨日の夜は『奇跡の鐘』公演の打ち上げとレニの誕生日祝いを兼ねたパーティが行なわれ、夜遅くまで大騒ぎだった。
 いつもは朝早いレニも、今日ばかりはいつもより少し遅い時間に起き、少し遅い朝食を取った。
 朝食の後は久しぶりにゆっくりしようと、書庫から本を持ち出してサロンに落ち着く。ソファーに座るとページを捲り始めた。
 いつも500ページ程度の本なら小一時間で読み終えてしまうレニだが、忙しかった公演期間が終わりゆっくりと時間が使えると、いつもより時間をかけて文字を追っていた。
 572ページある『都市蒸気学の発展と都市の繁栄』を3分の2読み進めたところで、アイリスが近づいてくるのに気がついた。
「おはよう。アイリス」
 レニは本から目を離すと、そのアイリスに笑顔を向けた。
「おはよー、レニ」
 アイリスはいつも通りの元気な声でそう返す。腕にはいつも通り彼女の親友が抱かれていた。
「今起きたの?」
「ううん。朝ご飯食べてきたところ。今日お魚だから食べるのに時間かかっちゃった」
 アイリスは魚を食べるのが苦手だ。
 今日の朝食に焼いたイワシが並んでいたのをレニは思い出すと、骨を除けるのに四苦八苦しているアイリスを想像し、思わず顔をほころばせた。
「ご本読んでるの?」
 アイリスはそう言うと、レニの側に来てその隣にちょこんと座った。
「うん」
 隣に座ったアイリスにレニが頷くと、アイリスがどんな本だろうと興味深そうに横からそれを覗き込む。
 そこに小さな文字がたくさん並んでいるのを見ると、アイリスは一瞬かえでに宿題を出された時と同じ顔になった。
「ねえレニぃ。昨日、ぬいぐるみ抱いて寝たぁ?」
 本への興味がなくなると、用意していた話題を持ち出す。
「え。うん」
 そう答えながら、レニはパタンと本を閉じた。
「あったかかったでしょう〜?」
 アイリスは嬉しそうにえへへと笑う。
「うん。そうだね」
 レニもそれにつられると、アイリスに微笑み返した。
「名前はなんてつけたの?」
 それからそう言われて、レニは昨日の夢を思い出した。
「……まだ、つけてない」
「一郎なんてどうですかー?」
 唐突にそう声が聞こえてきて、レニとアイリスは声のした方を向く。と同時にレニの頭にはその人の顔が浮かんでいた。
 二人が視線を向けると、織姫がいたずらな笑みを浮かべてそこに立っていた。
「それはお兄ちゃんの名前だよー」
 その織姫を見つけるとアイリスが頬を膨らます。
「別にいいんじゃないですかー? 同じ名前の人なんて世の中にはごまんといるでーす。それに中尉さんは今巴里ですしねー」
 いたずらな笑みのままに織姫。
「そんなの関係ないよー。もう、織姫はあっち行って!」
 茶化す織姫にアイリスが怒ってみせる。
「おーこわ。それじゃあわたしは行くでーす。チャオ」
 織姫は肩をすくめると、手をひらひらさせてもと来た廊下を戻って行った。
 おそらく今起きたところで、これから食堂に朝食を取りに行くのだろう。
 その途中、レニとアイリスの声を聞きつけて、サロンまで顔を出しに来たという訳だ。織姫流の朝の挨拶というところか。
「べーだ」
 織姫の背中にアイリスが可愛らしくあかんべをする。
「…………」
 レニは無言で織姫の背中を見つめていた。
「……アイリスがつけてよ」
 織姫からアイリスに視線を移すと、レニが声をかけた。
「えー、アイリスがつけていいのぉ?」
 アイリスもレニに向き直ると、驚いた顔をみせる。
「うん。ぬいぐるみの名前なんて、なんてつけたらいいか分からないし、アイリスにもらったプレゼントだから」
 それにレニはそう答えた。
「んー、じゃあねぇ……」
 レニにそう言われると、アイリスも納得したように、ぬいぐるみの名前を考え始めた。
 名前を考え始めると途端にアイリスは静かになり、時折うんうんと唸ると首をかしげた。
 あんまりアイリスが一所懸命になるから、レニはなんだか少し悪い気がして「今すぐじゃなくてもいいよ」と言うのだが、アイリスが空返事ばかりするので、三回言ったところで諦めた。
 アイリスが一所懸命なのに自分ばかり本を読む訳にもいかないので、レニはアイリスが首をかしげる姿を眺めながら、その口が開くのをじっと待つことにした。
「リュリュ! リュリュはどう?」
 どれくらい経っただろう。突然アイリスが声を上げた。
「リュリュ? フランスの名前だね」
 そういえばフランス製のぬいぐるみだったとレニは思い出す。
「うん。どうかなぁ?」
 アイリスが上目使いにレニを見つめた。
「うん。じゃあ、あの子の名前はリュリュにする」
 と、笑顔でレニ。
「きゃはっ」
 レニがそう言うとアイリスは嬉しそうな表情に変わる。
「ジャンポールのお友達になってくれるかなぁ?」
 それから腕の中の親友をギュッと抱きしめた。
「きっと大丈夫」
 それにレニがそう答えると、アイリスはジャンポールに向かって「良かったね」と笑った。



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