大神とレニに連れられて、大神の母親は支配人室に挨拶にやって来た。
支配人室には米田の他にかえでもいた。
「これは大神のお母さん。遠い所から良くいらっしゃいました」
「ウチの一郎がお世話になっております。ウチの子ちゃんとお役に立っておりますでしょうか?」とかしこまって大神の母親が言う。
「それはもう大変よくやってくれていますよ。団員の皆にも慕われておりますし」と米田が笑顔で返す。
それに大神の母親がありがとうございますと頭を下げると、今度はかえでが口を開いた。
「東京にはどれくらい滞在なさるんですか?」
「はい。特に決めてはいないんですけど、2、3日は遊んで行こうかと思ってるんですよ」
「あら。折角ですからもっとゆっくりなさればよろしいのに」とかえで。
「でもそうも言っていられなくて。牛の世話を、主人にまかせてきたものですから」
「そうですか?それじゃあ、こちらにいる間だけでも楽しんでいって下さいね」言ってかえでが微笑む。
「はい。そうさせてもらいます」大神の母親も笑顔でそれに答えた。
この日から大神の母親は大神の部屋に寝泊りする事になった。大神の部屋と言っても、今では大神とレニの部屋であるが。
大神とレニが結婚した頃に米田の粋なはからいで、大神の部屋とその隣りの部屋、つまりかえでの部屋の壁を取り壊し1つの大きな部屋とした。かえではレニの使っていた部屋に移り、大きくした部屋を大神とレニの新居としたのである。
入り口の2つある奇妙な部屋になったのだが、堂々と2人一緒にいられる部屋が出来たのだ。大神とレニには多少の事は気にならなかった。
大神の母はその部屋が出来て初めての宿泊客だった。
普段大神とレニが一緒に寝ている大きなダブルベッドにレニと大神の母親が一緒に寝る事になり、大神は床に布団を敷くことになった。
大神の母親はレニと一緒に眠れる事が嬉しいらしく、布団に入ってからも終始レニに話しかけていた。
大神にしてみればどうして母親ではなく自分が布団で寝なければいけないのだろうと思ったが、嬉しそうな母の顔を見ているとそんな気持ちもどこかに行ってしまった。
夜が更けるといつしか親子3人は安らかな眠りについていた。
次の日の朝。大神が目を覚ますとすでにレニと母親の姿はなかった。
だが、大神が寝坊をした訳ではない。時計はまだ7時前。いつも起きている時間だ。
大神は2人がいない事に気づくと慌てて服を着替え2人を探し始めた。
レニはいつも朝起きるとまず顔を洗い、次に厨房でフントとジゼルの朝ご飯を用意すると、それを持って中庭に行く。
大神はその通りに、まず2階の洗面所を覗いた後、1階に下り窓から中庭を眺めた。見るとすでにフントとジゼルは朝ご飯をおいしそうに頬張っている。どうやらレニはもう中庭へ足を運んだようだ。
だとすると2人で朝食を食べているのかと食堂に向かう途中、厨房から良い匂いが漂ってきた。その匂いにまぎれて、聞きなれた声も聞こえてきた。
「レニ」厨房に足を踏み入れると、大神はそこにいたレニに声をかける。
「あ、隊長。おはよう」と笑顔でレニは大神に朝の挨拶をした。
見るとそのレニの隣りには母親の姿もあり、どうやら2人で朝食の用意をしているようだった。
「一郎、起きた?さあさ、あなたも手伝って。お茶碗出してくれない?」
「何やってるんだよ、母さん。朝っぱらからレニを引っ張り出して。レニは身重なんだぞ」
「何言ってるの。お腹が大きいからって運動しないのは、逆に体に良くないのよ。私のお腹にあなたがいた時なんか、牛のお乳絞ってたのよ」
「ふう」と大神は溜息をつくと、やれやれとさっき言われた通り食器の用意を始めた。
それを見てレニはくすくすと笑った。
レニと大神の母親が作ったのは、何の変哲もない白いご飯とお味噌汁。それに焼き魚が一匹である。質素といえば質素だが、この時代の朝食といえばだいたいこんなものだろう。
食堂に花組が集まると、レニと大神の母親が作った朝食を皆で食べ始めた。
「これはおいしいです」マリアが思わず口を開いた。
「これなら何杯でも飯が食えるぜ」とカンナが言うが早いか、ご飯をおかわりする。
「本当においしいですわね」すみれもそのおいしさに素直に感想を言う。
「アイリス、こんなにおいしいお味噌汁初めてだよ」とアイリスもご機嫌だ。
「これはちょっとやそっとで真似出来る味やないで」紅蘭も感心する。
「おいしいで〜す。これホントにレニが作ったですか〜?」と織姫がそうレニに尋ねた。
「ボクはお義母さんの言う通りにしただけ」とレニが少し恥ずかしそうにそれに答えた。
「そんな事ないわよ。私はレニさんに教えただけで、ほとんど手伝ってないですもの」と大神の母親は微笑んで言った。
「そうなのかい?」と今まで黙っていた大神が口を開いた。
「う、うん」とレニがそれに返事を返すと、大神は少し驚いた顔を見せた。
「大神さんのお母様。今度あたしにも作り方を教えて頂けませんか?」さくらがあまりにおいしさに、そう大神の母親に尋ねる。
「あら、すみません。それは出来ないんですよ」と大神の母親はすまなそうにさくらにそう答えた。
「あら。どうしてですか?」とさくらが聞く。
「これは大神家の味ですから、レニさんにしか教えられないの。ごめんなさいね」
そこで花組は全員納得したように小さく声を漏らした。
大神も母親の言葉に納得してレニの顔を見ると、レニも大神の顔を見ていて、2人は目が合うと恥ずかしそうに微笑みあった。
米田は母親が上京してきたのだからと特別に大神に休みをやろうとしたのだが、母親の方でそんな事で仕事を休んではいけないと断られてしまった。
そういう訳で大神の母親は1日レニと過ごす事になった。レニが折角東京まで出て来たのだから、観光案内をしようと言ったのだが、それより帝劇でレニと一緒にいたいと大神の母親が言うので言う通りにする事にした。
大神の母親は朝食の片付けをレニと一緒に終わらせると、書庫で一緒に本を読んだり、フントとジゼルと遊んだり、部屋で大神の小さい頃の話をレニに聞かせたりした。夜になると花組の公演をやはりレニと一緒に観たり、お風呂にも一緒に入った。
夕食はまた大神の母親に教わりながらレニが作り、これまた花組の皆を驚かせた。
夕食後の片付けが終わると、厨房から部屋に戻る途中に大神の母親に誘われて中庭に出た。
雲1つない夜空に星が綺麗に瞬いていた。
「綺麗」とその星を見上げてレニが呟く。
「東京は蒸気で星なんて見えないのかと思ってたけど、案外綺麗に見えるものなのね」大神の母親もその星空を見上げると口を開いた。
「レニさんは、どんな母親になりたいの?」星空を見上げたままに、大神の母親がレニに唐突に聞いてきた。
「え?」不意の質問にレニは言葉に詰まる。
母親というものの存在を、肌で感じたことのないレニには、明確な母親像というものがなかったからだ。
「ボ、ボクは・・・」とレニが口篭もる。
そのレニを大神の母は慈しむように見つめた。
「くぅ〜ん」その時、フントの小屋の方からそう声が聞こえてきた。
続いて、「わんわん」と鳴く声が聞こえる。
「フント?」どこかいつもと違うその鳴き声に、レニはなんだろうとフントの小屋に近付いた。
「あ!」とレニはそれを見て声を上げた。
小屋の前でジゼルが苦しそうに横になっていたからである。
「産気づいているんだわ」レニの後ろから大神の母がそう言う。
「ど、どうしよう?」珍しくレニが慌てて言う。
「大丈夫よ。落ちついて。一郎を呼んで来てちょうだい」そのレニの肩に手を置き、優しく微笑むと、大神の母はレニにそう告げる。
「はい」その大神の母の言葉で落ち着きを取り戻すと、レニは返事を返し、大神を呼びに行った。