母親



 大神とレニが結婚して1年が経っていた。
 レニのお腹には2人の愛の結晶が宿り、その大きくなったお腹に耳を当てるのが、大神の日課になっていた。
 レニは今産休を貰っており、毎日書庫で読書をしたり、中庭で日向ぼっこをしたり、皆の芝居の稽古を見たりしてすごしていた。
 大神は相変わらず、モギリだ、雑用だ、伝票整理だと忙しい。
 花組の皆もレニの大きなお腹を気遣いながらも、2人の子供が生まれるのを楽しみにしていた。
 そんなある日の事。その声は帝劇のロビーに響き渡った。

「ごめんください。どなたか、いらっしゃいませんか?」
「?」その声に最初に気がついたのは、丁度食堂で食事を終えたすみれとカンナだった。
「おい。今なんか聞こえなかったか?」とカンナがすみれに聞く。
「ええ、ロビーの方で誰かが呼んでいるみたいですわね」それにナプキンで口を拭きながらすみれが答えた。
「行ってみようぜ」言うとカンナは席を立つ。
「あら、放っておけばよろしいんじゃございませんこと?今日は休演日。売店だってお休みですのよ」とすみれは素知らぬ顔だ。
「そうは言ってもお前、気にならねぇのかよ?」そのすみれを見下ろしてカンナがそう言った。
「なりませんわ。どうせどこかの田舎者が、サインでもねだりに来たんですわよ」
「そうか。じゃあ、あたいのサインが欲しいのかもしれねえな。あたいちょっくら行ってくらあ」すみれの言葉にカンナが素直にそう言うと、食堂を出て行った。
「ちょっと、カンナさん。まったく人が良いというのか、お気楽というのか・・・」言いつつもすみれは、口を拭い終わると、カンナを追って食堂を後にした。

 すみれとカンナがロビーにやって来ると、中年の女性が1人立っていた。
 年は40代後半位だろうか、背はすみれと同じ位で、体つきもほっそりとしていた。見るからに“お上りさん”という感じで、両手に大きな荷物をぶら下げている。
「あ、すみません。こちら大帝国劇場でよろしかったですか?」どこかおっとりとした口調で、その女性はすみれとカンナを見つけるとそう尋ねてきた。
「ああ、そうだけど。おばちゃん何の用だい?」それにカンナが答える。
「はい。私、こちらでお世話になっている一郎の母でございます。一郎のヤツに会いに来たんですが、道に迷ってしまいまして。何しろ東京は一郎とレニさんの結婚式以来ですから」そう言って笑う女性の顔を見て、2人共「あー!」と大声を上げた。
 そういえば、大神とレニの結婚式でこの女性を見た覚えがあった。もう1年も前の事なので2人ともすぐに思い出せなかったが、確かに目の前の女性は大神の母親だ。
「た、隊長のお母様。お久しぶりでございますわ」すかさず、すみれがそう挨拶する。
「えっと、あなた確か、すみれさんだったかしら?」と大神の母親が思い出しながらすみれに聞いた。
「ええ、ええ、そうですわ。わたくしが花組のトップスタア、神崎すみれでございます」と満面の笑顔ですみれが答える。
「はい、はい、覚えてますよ。でも、あなた相変わらず着付けがしっかり出来ないのね。また、着崩れしてますよ」そのすみれに大神の母親は真面目な顔でそう言った。
 それを聞いたすみれがポカンと口を開け、その横でカンナが笑いを噛み殺すのに必死になっていると、今度はそのカンナに声がかかった。
「あなたも良く覚えてますよ。良い男性は見つかりましたか?まだだったら一郎の弟がまだ独り者ですから、嫁いでいらっしゃいません?あなたならウチの牛達とも仲良くやってくれそうだし」
 そう言われ、今度はカンナがポカンと口を開け、すみれが笑いを噛み殺す番だった。
「それより、一郎はどこにいるんでしょう?案内して頂けませんか?」
「あ、え、はい」それに、すみれとカンナが我に返り、そう返事をした。

 今日は休演日なので、大神もモギリの仕事から解放され、伝票整理も午前中にすませてしまい、昼からはレニと共に休日を楽しんでいた。
 2人は中庭でフント夫妻を見つめていた。そう、フントもいつしか大人になり、どこで見つけてきたのか、可愛いお嫁さんをもらっていた。
「フントも早く子供が生まれるといいね」そう言ったのはレニだった。
 レニは中庭のベンチに大神と寄り添って座り、同じように目の前で寄り添って座っているフントとそのお嫁さんを眺めていた。
 フントのお嫁さんのお腹にもレニと同じように赤ちゃんがいるのだ。そのお腹が見た目にも大分大きくなってきているのが分かり、もうすぐ生まれるのではないかと思えた。
 ちなみにフントのお嫁さんの名前はジゼルという。名付け親はレニ。
 その由来はロマンティック・バレエの代表作『ジゼル』からだ。そのタイトルはヒロインの名前からで、レニはヨーロッパ時代にその役を演じた事があるのだそうだ。
「わんわん」フントがレニに返事を返すとジゼルのお腹に「くぅ〜ん」と気遣うような声を上げ顔を寄せた。
 するとフントが驚いた様に目をパチクリさせ、一旦ジゼルのお腹から顔を離すと今度は聞き耳を立てる様にしてジゼルのお腹に顔を近付けた。
「フント、どうしたのかな?」大神がそれを見てレニに聞いた。
「ジゼルのお腹で赤ちゃんが動いたんだよ」流石に同じ様にお腹が大きい者同士、レニにはその理由が分かったらしい。
「そうか。レニはどうだい?」と納得し、大神が言う。
「ん、今日は動いてないよ」言うとレニが微笑む。
「どれどれ」大神は言ったかと思うと、レニのお腹に耳を当てた。
「た、隊長・・・」とレニが恥ずかしそうにする。
 いくら結婚しているとはいえ、やはり誰に見られているか分からない帝劇の中ではレニも恥かしいらしい。
「ん〜、動かないな」大神はそんなレニの言葉を聞いてはいるが、わざと無視しそう言った。好きな女性が恥かしがる様は男にとっては可愛らしいものだからだ。
「あら、一郎。相変わらず仲が良いのね」そこへそう声が聞こえたから、大神は驚いてベンチから落ちそうになる。
「お、お義母さん!」レニがその声の主を見つけ声を上げた。
「お義母さん?」とレニの言葉に体勢を立て直しながら大神が言い、まじまじとその人物を見つめる。
「!」そして大神はその顔を見て驚く。すみれとカンナに連れられて、自分の母親がすぐそこに立っているのだ。
「一郎、仲が良いのも良いけど、今日はお仕事はもう終ったの?」大神に近寄り大神の母親は言うと、にっこりと微笑み大神を見下ろす。
「あ、か、母さん。そ、そんな事よりどうしてここに?」その母親の笑みに大神も引きつった笑いを返すと、どもりながらそう尋ねた。
「あなたが全然連絡くれないから、母さん気になって出て来たの。レニさんのお腹、ずいぶん大きくなってるじゃない」と少し眉をひそめた。
「ごめんなさい、お義母さん」その言葉を聞いてレニの方が頭を下げた。
「レニさんは悪くないのよ。一郎が不精者だから」そのレニに大神の母親は満面の笑みを見せると言う。
「母さん、レニには甘いんだから・・・」と大神がぼそりと呟くと、
「隊長だってそうじゃねぇか」と今まで黙って事の成り行きを見守っていたカンナがそう口を開いた。
「まったくですわ」とそれにすみれが同意すると、
「そうなのかい?」と大神の母親は、また大神に質問し、大神は返事に困ってしまった。
 その大神と母親のやり取りを見て、すみれとカンナはクスクスと笑い、レニも思わず笑みをこぼしていた。



次へ