売店からは今日も       
  椿の元気な声が聞こえてくる



   太正15年3月。
 大帝国劇場は今、春公演『夢のつづき』の準備期間中で、舞台は休演が続いている。
 それでも売店や食堂は変わらず営業しており、売店からは今日も椿の元気な声が聞こえてくる。
「いらっしゃいませっ」
 目の前の客に椿が元気良く挨拶をする。
「相変わらず気持ちがいいねー、椿ちゃん」
 その客が椿の声に笑顔で言った。
「えへ、ありがとうございます。元気が私の取り柄ですからっ」
 それにまた椿が笑顔で返すから、その客もつられてまた笑顔を見せる。
「今日は何をお求めですか?」
 少し小首を傾げ、椿が聞く。
「ああ、今日は事務局に春公演の前売りを買いにね」
 それにその客が少し申し訳なさそうに答えると、
「そうなんですか。じゃあ、今日はこれでお帰りですか?」
 椿がまたそう聞く。
「ああ、悪いね。売店では何も買わないのに顔を出してしまって」
 そしてまた客がそう言うと、
「いえ、そんなこと。気にしないで下さい。お客様の笑顔が私の元気の元なんですから。お声をかけて下さるだけで嬉しいです」
 そして、また笑顔。
「そうかい。私も帝劇に来たら椿ちゃんの顔を見ないと落ち着かなくてね」
 客もまたつられて笑顔を見せた。
 そしてしばらく談笑が続き、笑顔のままにその客は帰って行った。
 売店で毎日の様に見られる風景である。
 椿の元気な声と人懐っこい笑顔は誰にでも人気で、一度でも売店に足を運んだ者は少なからず椿に好感を抱いていた。
 その中でも何人かの客は椿のファンだと言って、休演中でも売店に、椿に会いに足を運んだりするのである。
 椿もそんな客をありがたく思い、常連客達との何気ない会話に花咲かせることもあった。

 春公演のパンフレットやポスターの準備も整いつつあり、今日納入されてきた分を由里が売店まで運んで来た。
「よいしょっと。ふぅ、これで全部ね」
 重そうにパンフレットの入った箱を床に置くと、由里がホッと一息つく。
「由里さん、ありがとうございます」
 運ばれて来た箱を開けながら椿が言うと、早速それの整理を始めた。
「椿も大変ね〜。こんなにたくさん1人で管理してるなんて」
 その椿を見て由里が感心して言う。
「慣れれば大したことないですよ。時々は大神さんも手伝ってくれますしね」
 言いながら、それでも手は止めずに椿。
「あ、大神さんと言えば。聞いた? あの話」
 と、椿の言葉に何かを思い出し、由里がいつもの様に目を輝かせる。
「え? 何ですか、あの話って?」
 それに椿がそう聞くと、由里は嬉しそうに話し始めた。
「今、花組の皆さんは毎日舞台で春公演のお稽古してるじゃない? それを見ていた大神さんが、客席で幽霊を見たんですってぇ」
「ゆ、幽霊ですか〜?」
 思わず椿が声を上げると、商品を整理する手を止めて由里に向き直る。
「そうなのよ。最初は誰かが客席に入り込んだと思ったらしいんだけど、大神さんが声をかけようとしたらすぅっと消えちゃったんですって」
「いやー、私そういう話だめなんですぅ〜」
 椿が顔を引きつらせて由里に泣きつく。
「あははー、だらしないわねぇ。でも、大神さんが見たっていうのは本当よ。本人に聞いたんだから」
 そう言って由里がだめを押す。
「もう、やめてくださいよ〜」
 たまらず椿は耳をふさいだ。
「あははー」
 その椿を見て、由里は声を出して笑っていた。

 次の日の午後。昼食を取るため、椿は食堂に足を運んだ。
 公演のない日でも帝劇の食堂は通常通り営業している。
 公演中に比べるとその客数は断然少ないが、それでも食堂で出される西洋料理の味に惹かれ、ランチタイムにはいつも数人の客が席に着いていた。
 その客に混ざって、椿もランチを注文した。
 帝劇食堂の定番メニューの1つ、日替わりランチ。通称帝劇ランチである。
 毎日内容は変わるが、値段は定額の5円。味の良さと値段に見合ったボリュームが人気だった。
 注文してしばらくすると、ウェイトレスのつぼみが危なっかしく料理を運んできた。
 椿がそのつぼみに礼を言い箸を取ると、去っていくつぼみと入れ替わりで、その声がかかった。
「ここ、いいかな?」
 その声に椿が顔を上げると、モギリ服を着た青年がにっこりと微笑んで立っていた。
「あ、大神さん。大神さんも今からお昼なんですか?」
 そのモギリ服の青年、大神を見つけると、椿も笑顔で言う。
「ああ、丁度一区切りついたんでね」
「そうですか。じゃあ、一緒にお昼にしましょう」
 椿にそう言われ、椿と同じテーブル、その向かい側に大神も腰かけた。
 大神もランチを注文すると、一緒にそれを食べ始める。
「あ、そう言えば……」
 適度な会話をはさみながら箸を進めていると、少し言いにくそうに椿が口を開く。
「ん、なんだい?」
 その態度に何かと思い、大神がそう返す。
「あのー、由里さんから聞いたんですけどぉ、客席で幽霊を見たって……本当なんですか?」
 他の客に聞かれては少々まずい話題でもあるので、椿は少し声のトーンを落とし、気持ち大神に顔を近づけた。
 すると大神もすぐには答えず、少し椿に顔を近づけてから口を開く。
「ああ、本当だよ」
 その大神の言葉を聞き、椿が表情を少し強張らせる。
「俺が花組の舞台稽古を見ていた時だったんだ。初めは誰かお客さんが入り込んだんだと思ったんだけどね。声をかけようとしたら、すぅっと姿が……」
「や〜ん」
 昨日、由里から聞いてすでに知っている話とはいえ、当事者の大神に聞くとまたリアルに感じ、椿はまた怖がって声を上げた。
 その声が少々大きかったので、他の客の注目を浴びてしまう。
 椿がそれに気づくと恥ずかしくなって体を小さくし、一緒にいる大神も少し気恥ずかしくなった。
「それで、その幽霊どんな風だったんですか?」
 それでも怖さよりも好奇心が勝っているのか、椿は体を小さくしたままに、さっきより大神に顔を近づけるとそう聞いた。
「和服姿の中年の女性みたいだったな。表情までは分からなかったけど、客席に座ってじっと舞台を見つめていたんだ」
 大神も椿に顔を近づける。
「座ってですか?」
「ああ、確かト列の12番か13番くらいの席だったと思うよ。舞台をじっと見つめていたから、もしかしたら花組のファンなのかも知れないね」
 最後に軽く冗談を言って、大神は笑顔を見せた。
「う〜、やっぱり聞くんじゃなかった〜」
 反対に、椿は泣きそうな顔になる。
 怖いと分かっていても、好奇心が勝ってしまう。この年頃の少女特有の怖いもの見たさというものだろう。
「あはは。でも、そんなに気にすることはないと思うよ。あれ以来見ていないし、それにもしかしたら俺の見間違いかも知れないしね」
 椿の態度に大神がそんなことを言って慰める。
 だが、大神のリアルな話の後だけに、その慰めはまったく効果がなかった。



次へ