影山サキは、もういない―――
陸軍省から米田がサキと帝劇に戻ると、帝劇のロビーで小さな子供が1人泣いていた。
いつもロビーにいるはずの大神の姿はどこにも見えず、かすみや由里も次回公演の前売りを販売する為に事務局にいるのだろう、姿は見えなかった。
椿は売店で忙しそうにしており、その子供には気付いていないようだ。
ロビーには大勢の人がいるのだが、もうすぐ開演時間とあって席に向かうのに忙しく、誰もがその子供を気にはしているのだが、誰かが面倒見てやるだろうという風に皆自分の席に急いでいた。
見かねて米田が声をかけようとした時、スッとサキがその子供に歩み寄り、目の前にしゃがむと、優しくその子供の頭を撫でてやった。
優しく微笑むと、どうしたの?と声をかける。
米田は、その時のサキの笑顔を、今でも覚えている。
影山サキが、帝国華撃団の一員だった頃の話である。
秋公演『青い鳥』も無事終了し、事務局ではかすみと由里が事務処理に追われていた。
「もう、こんな時に大神さん手伝ってくれないなんて」
由里があまりの忙しさに思わず声を上げた。
「仕方ないわよ。つぼみちゃんはまだ売店の仕事に慣れていないんですもの。大神さんには売店を手伝ってもらった方が良いわ」
かすみの言う通り、大神は秘密任務で帝劇を留守にしている椿の代わりに、乙女学園から推薦でやってきたつぼみの手伝いで売店に出ている。
公演が終了したとは言え、売店は開いているし、在庫点検や商品発注、その他もろもろの仕事はまだ完全につぼみ1人には任せられなかったからだ。
「あーあ、せめてもう1人・・・」
と、由里がそこまで言いかけると、
「由里」
かすみがそう由里の言葉を遮った。
そのかすみの言葉で、由里は自分が何を言おうとしていたのかに気がついた。
「あっ」
自然と口から出てしまったその言葉に、由里は思わず声を上げ、自分自身の言葉に驚いた。
「ごめんなさい。私つい・・・・・」
由里はそう言うと、少ししゅんとした顔を見せる。
『もう1人』その言葉の意味はかすみにも良く分かっていた。
“仕方ないわよね。こんな時はあの人にも手伝ってもらっていたんだから・・・”
そう思うと、かすみは由里にそれ以上何も言えなかった。
ガチャッ。
「おう、ちょっくら出かけてくるぞ」
いきなり事務局のドアが開くと、そう言いながら米田が顔を出した。
大帝国劇場支配人。米田一基である。
「支配人。どちらへお出かけですか?」
その米田を見とめると、かすみが声をかけた。
「ちょっくらそこの酒屋までな。何でも新しい銘柄が入ったらしくてよ」
米田がしたり顔でそう言うと、かすみは思わずため息を漏らす。
「ツケはダメですからね」
そして、米田を少しきつめの顔で見つめるとそう言った。
「分かってるよ。おっかねぇな」
それに米田がおどけて返すと、顔を引っ込めながら、じゃあなと言って、事務局のドアを閉めた。
「支配人は相変わらずか・・・」
米田が消えていったドアを見つめ、由里がポツリとそう言った。
“そうかしら・・・”
その由里の言葉に、米田を抜けば帝劇で最年長になるかすみが頭の中でそう呟いた。