太正15年7月5日。
 夏公演真っ最中の大帝国劇場。
 その日は、夜の公演が終了後も花組全員が残り、稽古を続けていた。
「わたしのどこが気に入らないって言うんですかー!?」そう叫んだのは織姫だった。
「織姫のその立ち位置だとアイリスがこっち側のお客さんから見えなくなっちゃうんだよお!」言いながらアイリスは、視線は織姫に向けたままに、舞台から見て左側の客席部分を指差した。
「そんなの仕方がないでーす。舞台は生き物でーす。わたし達役者が見る角度によって違って見えるように、舞台も見る角度によって違って見えるのは仕方がありませーん!」
「そんなの分かってるよ!でも、ここはアイリスの1番の見せ場なんだよ!ここだけは来てくれたお客さん全員に見てもらわなくちゃ、アイリス嫌だよ!」
 そこで織姫とアイリスは睨み合った。

 帝劇花組も結成から4年以上が経ち、舞台の主役はマリア、カンナ、さくら達から若いアイリス、レニ、織姫らが務めることが多くなってきていた。
 そして、今年の夏公演の演目は『不思議の国のアリス』主役のアリスはアイリスが演じていた。花組にしては珍しく単独での主役である。
 そのアイリスが脇を務める織姫の立ち位置が気に入らないと言う。自分の見せ場なのに客席によっては織姫の陰になって見えないと言うのだ。
 花組もこれには驚いた。今までアイリスが、これほど自分の役に対して自分の意見を強く主張したことなどなかったからだ。しかも、自分ではなく織姫の立ち位置を変えろと言う。

「どうして今になってそんなことを言い出したの?」たまらずマリアが間に割って入る。
「舞台が始まってから分かることだってあるよ。お客さんの前で演じてみて、初めて気付くことだってあるでしょう?」
「それは、そうだけど・・・」とアイリスの意見にマリアも返事に戸惑う。
「そんなわがまま子供の言うことでーす。アイリスはもう大人なんでしょう〜?」だが、それを聞いた織姫は少しあてつけがましく言った。
「ぅっ!」とアイリスが顔をしかめる。
「アイリス今日お誕生日だっていうのに、こんな時間までがんばってお稽古して・・・。どうして分かってくれないの!もう良いよ、もう知らない!」言うとアイリスはその場から駆け出して行ってしまった。
「アイリス!」すぐにレニがその後を追う。
「あ、レニ。ウチも」と紅蘭が後に続いた。
「あたしも」とさくらも後を追った。
 他のメンバーはレニ達にまかせその場に残った。
「織姫。あなたも少し言いすぎたのは分かっているんでしょう?」マリアがアイリスが消えて行った舞台袖を見つめている織姫に話しかけた。
「わ、わたしだって舞台に立つ以上は、自分の役はきっちりこなします。それが脇役でもでーす。けど、アイリスの言うことはただのエゴイズムでーす。舞台を良くする為に言っている発言とは思えませーん」
「それにしたって、織姫さん。あなただって言ってることが少々子供じみてましてよ。あんなあてつけがましく言うことはないんじゃありませんこと?自分がまだ大人になりきれていないことを1番良く分かってるのはアイリス自身ですのに」
「アイリスは今回初めて単独の主役なんだよ。いつもより一生懸命な気持ち分かるだろ?それに今日は誕生日だっていうのに、こんなに遅くまで稽古を続けるなんて、アイリスも前に比べりゃ随分大人になったと思うぜ」
 マリアだけでなくすみれやカンナにまでそう言われ、織姫はムッとした表情を見せた。
「何だって言うんですか皆さん!まるでわたし1人が悪いみたいじゃないですか!?もうわたし、知りません!」そして最後にアイリスが言ったセリフと同じ言葉を言って織姫もその場から立ち去ってしまった。
「織姫のヤツ、アイリスと同じこと言ってるぜ」言うとカンナが肩を竦める。
「本当に、どちらが子供か分かりませんわね」すみれもふっとため息をついた。
「それだけアイリスと私達の差が縮まってきたと言うことよ。それに織姫の気持ちも分からなくもないわ」
「織姫さんの?」
「織姫は世界的なスタアなのよ。ヨーロッパの頃から培われてきた自信やプライドみたいなものは、私達の誰よりも強いものだと思うわ。それを子供だと思っていたアイリスにああも強く言われては、ムキになるのも無理ないかもしれないわね」
「ま、確かに誰だって夢中になってる時は子供みたいなこと言っちまう時があるわな」
「あら、わがままでなくなったら役者は終わりですわよ」
「おいおいすみれ。お前さっきと言ってることが違ってないか〜?」
「あら、わがままと自分勝手とは違いましてよ」
「まあ、それはそうね」マリアがそれにポツリと言った。

 アイリスの部屋の前。
 レニ、紅蘭、さくらが部屋の中のアイリスに話しかけている。
「アイリス、ボクだよ。ここを開けてよ」
「アイリス、織姫さんも悪気はなかったのよ。だから機嫌直してちょうだい」
「織姫はんにはうちからも良く言うておくから」
 随分と長い間そうして話しかけていたが、部屋のドアは一向に開かず、中から声も聞こえてこなかった。
「まさか、また家出したんとちゃうやろな?」紅蘭が以前アイリスが家出した時のことを思い出した。
 アイリスは去年の秋公演の稽古中に家出したことがある。
 原因は子供扱いされたことだった。
 事実あの時のアイリスは子供だった。だが、あれから1年近く経ち、アイリスも当然成長している。
「それはないよ。アイリスは確かにまだまだ子供かもしれないけど、明日の公演を放ってどこかに行ってしまったりはしないよ」証拠はなかった。だが、確信はあった。
 レニは花組の中でもアイリスに1番近しいところにいると言って良いだろう。アイリスが大人へと成長していく過程を1番近くで見てきたし、レニ自身もアイリスと共に大人へと成長していっている。
 共感と言うよりは共鳴みたいなものを感じていた。
「明日の公演には必ず出てくれるよ」少しも疑わずにそう言うレニに、さくらも紅蘭ももう何も言わなかった。
「じゃあ、今日はもうそっとしておきましょうか・・・」
「せやな、立ち位置のことは明日また話し合えば良いやろ」
 そう言い合って3人がアイリスの部屋の前から立ち去る。
 さくらと紅蘭が部屋に戻り、レニも部屋に戻ろうとした時、織姫が階段を上がってきた。
 織姫はレニを見つけると「あっ」という顔をしたが、すぐに視線をそらしレニの横を黙って通り抜けて行った。
「織姫、忘れちゃったの?」その織姫の背中にレニがそう投げ掛けた。
 織姫は一瞬立ち止まりレニに振り返ったが、すぐにまた前を向き足早に自分の部屋に戻って行ってしまった。
 その頃アイリスは、さっきドア越しに聞こえたレニ達の会話で、去年レニと共に主役を演じた秋公演の頃のことを思い出してた。
 帝劇を飛び出したこと、そしてその時レニに言われた言葉。
『光を失わず・・・、輝きをなくさず・・・、大人になればいい・・・』
「そうだよ、だからアイリス、輝いていたいから・・・」



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