カンナのいる風景



 太正15年。夏の暑さがまだ残る、9月始めの事。

 銀座、大帝国劇場は、本日休演日である。
 午前中は花組揃っての舞台稽古があり、午後からは自由時間となっていた。

 稽古を終えたカンナとすみれが、舞台から食堂に向かって歩いていた。
「どうして、おめぇはそうなんだよ!」
「あーら、カンナさんこそ!」
 すでに2人の日課ともいえる、言い合いの声が廊下に響く。
 ガチャ。
 と不意に2人の前の部屋のドアが開いた。支配人室のドアだ。
「相変わらず仲が良いなぁ?」部屋から現れた米田が2人を見つけるとそう言った。
「米田さんっ!私達のどこが仲が良いように見えるんですの?」すみれが米田に向かってそう言うと、
「へへへ」と米田がすみれに笑って見せる。
 すみれはその米田の笑いでなぜか黙ってしまい、プイッとそっぽを向いた。
 それを見て米田はもう1度小さく笑うとカンナの方に目をやる。
 いつものすみれならもっとくって掛かるのに今日はどうしたんだろう、と不思議に思っていたカンナだが、米田の声で意識が引き戻された。
「カンナ。ちょいとおめぇに頼みがあるんだがよ」
「え?あたいに?」
「おう。ちょいと花やしき支部までお使いを頼まれちゃくれねぇか?」
「お使い?いいけど何の用なんだい?」
「いや、大した用じゃねぇんだがよ。取りに行ってほしいもんがあってな。大きくて重いもんだから、他の連中にゃあ頼めねぇのよ。こんな時大神の野郎がいてくれりゃあ、あいつに行かせるんだがな」
「ふーん、いいぜ。そういう事ならまかしときな」カンナが元気よく答えた。
「おお、そうか。じゃあ頼んだぜ。急ぎゃしねぇから晩飯までに行ってきてくれれば良い」と笑顔の米田。
「あいよ。じゃあ出かける前に腹ごしらえだ」とカンナがペロッと舌を出すとすみれに声を掛ける。
「行こうぜ、すみれ。メシだ、メシだ」
「まったく、お下品なんだから・・・」とすみれが呟いて後に続いた。
 2人の背中を見送りながら米田は、“さっきまで喧嘩してやがったくせにもう平気で話してやがるぜ”と心の中で微笑した。

 帝劇を出るとカンナは、澄みきった青い空を見上げ思い切り伸びをした。
「あぁー、いい天気だぜ」
 9月に入り、いくらか過ごしやすくなったとはいっても日中はまだ暑い。だが沖縄生まれのカンナにはこれくらいが丁度良くもあった。
「せっかくだから走っていくか」そう呟くとカンナは、浅草までの道のりを走り始めた。
 こんないい日に帝鉄や地下鉄を使ってはもったいない。それが理由だった。暑い中、体を動かして汗をかく。それがカンナには似合っている。
 銀座から浅草までの道のりは距離にして約7km。帝鉄や地下鉄なら14〜15分、弾丸列車轟雷号ならばものの5分とかからないだろう。
 だが、歩くとなるとゆうに1時間以上かかる距離と言える。今流行りの自転車でも30分はかかるだろう。だが、カンナは帝劇を出て20分後にはすでに浅草寺に到着していた。
 流石は琉球空手桐島流28代継承者。鍛え方は並じゃないという事だろう。
「んぐ、んぐ、んぐ、んぐ。ぷはぁー」
 それでも喉はカラカラで、浅草寺の境内にある清めの水をヒシャクですくうと、一気にそれを飲み干した。
「うめぇー」とカンナが口を拭う。
 と、横で同じようにヒシャクを口に運んでいた参拝客が、それを見てクスクスと笑った。
「へへへ」とカンナがそれに気づき、照れ笑いをする。
 その時、カンナの耳に子供の声が聞こえてきた。子供好きのカンナだけに、子供の声には敏感に反応する。
 声のした方向に目をやると、本殿の前の広場のようになったところで数人の子供達が遊んでいるのが見えた。
 それを認めると、今度は声には出さないが先程とは違った意味の「へへへ」という笑みを浮かべ、子供達を見つめる。
 カンナは子供時代、父親について修行修行の毎日だった。12歳の時、父親が果たし合いで殺され、親戚の家に引き取られてからも、1人で修行を続けていた。それゆえ小さい頃、同じ年代の子供達と遊んだ記憶がカンナにはなかった。それが今の子供好きの理由かもしれない。子供を見ると一緒に遊んでやりたくなる、というよりもむしろその時ばかりは子供時代に返って当時遊べなかった分遊んでもらっているのかもしれなかった。
 そしていつものように子供達に近づいて声を掛けようと思った時、子供達の中の2人が激しく言い合いを始めた。やがて1人がもう1人を小突くと、ついに喧嘩が始まった。髪を引っ張ったり、噛みついたりしている。他の子供達は‘どうしよう’といった感じでその場に立ち尽くしていた。
「痛そー」カンナは呟くが止めに入ろうとはせず、遠巻きに見ている。
 子供好きと過保護とは違う。喧嘩をするのにも理由がある。ほんの些細なことだったり、どうしても譲れない事だったり、意見の違いだったり、理由は色々だろうがそうして喧嘩を繰り返す事によって協調性や譲り合いの気持ちなどを学んだり、それをステップに友情が深まったりもする。
 そのことをカンナは良く知っていた。だからカンナは子供の喧嘩を止めたことがない。
 やがて2人の子供は取っ組み合いを始めると、地面をゴロゴロと転がり、時には上になり、下になりして、相手をつねったり、引っ掻いたりする。
「わぁーーーーーーーん!」ついに1人が泣き出した。
 どちらかが泣いたら喧嘩は終わり。それが喧嘩のもっとも大切なルールのうちの1つだ。子供達もその事は良く知っている。相手が泣いているのにまだ喧嘩を続ける事は、もうすでに喧嘩ではなくいじめだからだ。
 泣かしてしまった方の男の子は自分がこの喧嘩に勝ったと知り、馬乗りの体勢から立ちあがると‘あーあ’という表情で泣いている子を見下ろしている。泣かしてしまった事に‘どうしよう’という表情が見て取れる。
 泣き出した子も馬乗りになっていた男の子がどくと、涙を流す目を押さえながらも立ち上がる。その子に他の子供達が駆け寄り、慰め始めた。
「ちぇっ」それを見て泣かした方の男の子が舌打ちした。
 カンナは喧嘩が終わった事を見届けると、笑顔で子供達に近づいていく。
「もう喧嘩は終わりかい?」



次へ