大神一郎災難記



 大帝国劇場。その事務室。
 大神は今日もそこで伝票整理をやっていた。
 事務室では、大神の他にかすみが書類の整理をしている。由里は来賓用玄関にポスターの張り替えに行っていた。
「大神さん、お茶でも入れましょうか?」そのかすみが大神に声を掛けた。
「ああ。頼むよ、かすみくん」伝票から目を離さずに大神が答える。
「はい」かすみは気持ちの良い返事を返すと、お湯を沸かす為に席を立った。
 その時、ふと目に入った壁に掛けられている日捲りのカレンダーが、昨日の日付のままになっている事にかすみは気がつく。
 几帳面な性格のかすみはすぐにそれを捲る。そして現れたその日付けを見て、何か思い出したように少し微笑した。
 勿論、伝票とにらめっこしている大神にはその微笑みは見えない。
 その日付けは4月1日。世に言うエイプリルフールである。
 かすみがお茶を入れて戻ってくると、大神の机の上に湯呑を置く。
「ありがとう、かすみくん」丁度キリが良かったのか、大神が一息つくとそれを受け取り礼を言った。
「あの、ところで大神さん・・・」お茶の入った湯呑を手に取って大神がそれを飲もうとすると、かすみからそう声が掛かった。
「なんだい?」湯呑を持ち上げたままに大神が聞く。
「実はここだけの話なんですが、米田支配人が飲んでいるお酒には霊力を押さえる力があるらしいですよ」神妙な顔でかすみがそう言った。
「え?霊力を押さえる?」大神も湯呑を持ち上げたままの姿勢でかすみを見やる。
「何でも高すぎる霊力の暴走を押さえるために常に酔っていなければならないとかで・・・」
「え!そうだったのかい!」大神が驚いてから、
「そうだったのか・・・。流石は米田支配人」と妙に納得した。
 勿論、嘘である。めずらしく、かすみが見せた悪戯心だった。神妙な顔つきでもっともらしい嘘を言うところがかすみらしい。
 元来まじめな性格の大神は、仲間が自分に嘘をつくなど想像もしなかった。
 かすみはその大神を見ると不意に背を向けて、くくっと笑った。
“大神さん、本当に純粋な人ね。こんなに簡単に騙せちゃうと何だか悪い気になるわ”思いながらもそんな大神が少し可愛く思え、笑いを堪えるのに必死なかすみである。
 そこで、振り向いて、
『なんて、冗談ですよ大神さん。支配人はただの飲んだくれなだけです』とそうかすみが言おうと思った瞬間。
「大神さ〜ん。手伝ってくれませんか〜?」バタンと事務室のドアが開き、由里が勢い良く飛び込んで来た。
 かすみが大神に言いかけて開けた口を、ポカンとさせたままに由里を見た。
「あら、かすみさん。はしたない。眠たいんですか?」それを見た由里が、欠伸と勘違いしてそう言った。
「違うわよ。由里こそそんなに勢い良く入ってきてはダメよ。お客様が見えたらどうするの?」と逆にかすみが由里を注意した。
「はーい。すいませーん。それより大神さん、伝票整理はもう終わりましたか?」かすみに謝ってから、由里は大神に向き直る。
「あ、ああ。今丁度一段楽したところだよ」やっと持っていた湯呑を口に運び、中のお茶を一口ぐびっと飲みこんでから大神が答えた。
「わーい、良かった〜。じゃあ、少しこちらを手伝ってくれませんか?」由里は疑問形で言ったが、心の中ではもう手伝ってもらう事を決めてしまっているようだった。
「良いかな・・・?」大神もそうと知り、かすみに尋ねる。
「仕方ありませんね。今日はここは結構ですから、由里のポスター貼りを手伝ってあげてください」と、かすみも由里の気持ちを察してか、そう答えた。
「じゃあ、大神さん。早速お願いします」由里は言って、大神に微笑むと事務室のドアを開けて見せた。
「はいはい」大神も笑いながらそう言うと、立ち上がり由里が開けてくれたドアから出て行く。
 事務室から出て行く時に中にいるかすみに振り向き、「お茶ごちそうさま」と声を掛ける。
「じゃあ、かすみさん」由里もかすみに挨拶をすると、事務室から出て大神に続いた。
「全く由里ったら・・・」それにかすみが微笑んでから、ふとさっき大神に言いかけたことを思い出した。
「あら、いけない。大神さんに嘘をついたままだったわ。あとでちゃんと説明しておかなくちゃ」そしてそう呟いた。
 それが大神の災難の始まりだった。

 来賓用玄関で由里と並んでポスター貼りをしていると、思い出したように由里が声を掛けてきた。
「そうそう、大神さん。あたし見ちゃったんです」
「え?何を見たんだい由里君?」
「昨日ですね〜、支配人室のドアが開いてたから思わず覗いちゃったんですね」
「え、君もかい?」大神はかすみの話を思い出し、また米田の秘密話かと興味を持った。
「え、『君も』って?大神さん?」話の腰を折られる形になったが、好奇心旺盛な由里は自分の話より大神の一言が気になった。
 それに大神がさっきかすみに聞いた話をすると、由里は「へぇ、そうなんだ」と自分だけ納得したように頷いた。
 カンの良い由里は、それがかすみの嘘だと見破ったようである。
「なんなんだい?」大神がその由里に説明を求める。
「実はですね。ごにょごにょごにょ・・・」由里は辺りに誰かいるわけでもないのに、大神に近付きそっと耳打ちした。
「ええー!ツノー!?」その由里の行為もむなしく、大神はそれを聞いた途端大声を上げた。
「わ〜あ〜。大神さん声が大きいですよ〜」由里は驚き、慌てて大神の口を手でふさぐ。
「ふがふが」大神が口を押さえられながらも何か言ったが、何を言ったのか由里には当然分からない。
 それで由里が手を離すと、大神はふぅと1度息をつき、もう1度今の言葉を言う。
「ツノって、あの頭に生えるツノかい?由里くん、何かの見間違いじゃないのかい?」相変わらず驚いた顔の大神。
 由里は米田の頭にツノが生えているのを見たと言うのだ。
 当然、嘘である。茶目っ気たっぷりの由里らしい嘘だった。
「いいえ、見間違いなんかじゃありません。さっき大神さんが話してくれたかすみさんの話もこの事と何か関係があるのかもしれませんね。お酒がツノを隠す薬になっているとか?」由里は言うと考える仕種を見せたが、顔は笑っている。
「た、確かに・・・。あのかすみさんが嘘をつくとは思えないし、米田支配人には何か俺達の知らない秘密が・・・」と考えこむ。
 またしても信じてしまう大神。あのかすみさんとこの由里が嘘をついたとも知らず。
「まあまあ、大神さん。考えてても仕方がないですよ。早くポスター貼っちゃいましょう」その大神を見てふふふと由里が笑ってからそう言った。
“あらあら大神さん、ホントに信じちゃったわ。まあ、そこが大神さんの良いところでもあるんだけど”由里はそう思うと、ぺろっと舌を出し再びふふふと微笑んだ。

 ポスターを貼り終えて、事務室に戻る途中。
 由里は大神の背中を見ながらクスクスと笑い、いつ大神に嘘だと告白しようかと考えていた。
 すると、事務所の前で椿と出くわした。
「あっ、大神さん。丁度良かった」その椿が大神の姿を見つけるとそう声を掛ける。
「やあ、椿ちゃん。何か用かい?」大神が笑顔で椿にこたえた。
「はい。実は売店の商品の片付けを手伝ってほしくて、お願いに来たんです」
「ああ、良いよ。丁度今手が開いたところなんだ」と大神が嫌な顔1つせずに答えると、椿も嬉しそうに微笑んで「ありがとうございます」とお辞儀を返した。
「じゃあ、由里くん。俺は売店に行くから」そして大神は、由里にそう言ったかと思うと、すぐに椿と一緒に売店に向かった。
「あっ、大神さん!」由里がさっきのは嘘でした、と言う前に大神は椿と一緒に売店に行ってしまった。
「ま、いいか。あとでも構わないわよね」由里は大神を見送りながら、そう呟いた。
 それが、あとだと構うのである。



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