木漏れ日の下でパ・ド・ドゥ



 暖かい春の日の中庭で、寝転んで本を読むのがレニは好きだった。
 日の光をいっぱいに吸い込んだ芝生の上、横になり本を開く。フントがそのレニを見つけて寄ってきた。
 時折吹く風が心地良く、ともするとそのまま居眠りしてしまいそうになるが、それならそれで構わなかった。
 直射の下では白いページに陽光が反射して少し眩しい。レニとフントは木漏れ日の下に仲良く並んだ。
 今、レニが読んでいるのは『白鳥の湖』。
 レニはなんとなく、今朝からその本を読み始めていた。
 英語で書かれたその本が見つかったのは、つい昨日のことだった。



 帝劇の書庫には数千という数の本が収められている。
 それらはジャンルや著者ごとに分けられて、それぞれの棚に整然と並んでいた。
 昨日、事務局のかすみと由里が定例の書庫整理をしていると、その本が見つかった。
 普通、書庫に収められる本には、納入日やジャンルが書かれたシールが背表紙に貼りつけられる。
 そのシールが貼られていないその本が、この書庫の物でないことはすぐにわかった。
 最初、英語で書かれていたその本をかすみはマリアの物だと思ったが、本人に聞いてみるとそうではないと言った。
 マリアが読むと、それはバレエで有名な『白鳥の湖』の物語だという。
 バレエならばレニの物かもしれないとレニに聞いてみるのだが、やはりそうではなかった。
 しかし、レニにはその本の持ち主に心当たりがあった。
 英語で書かれた物であること。亜米利加の出版物であること。そして、それが『白鳥の湖』であること自体から、その持ち主がラチェットだと確信した。
 それならば紐育のラチェットに郵送しようかと言うかすみに、レニはその必要はないと答える。
「……たぶん、ラチェットにはもう必要のないものだと思うから」



 読み進めたところまでのページ数を覚えると、レニはパタンと本を閉じた。
 うつ伏せになっていた体を仰向けにすると、フントがレニの顔を覗き込んでくる。
「くぅーん」
 と鳴くフントの顔を、レニはよしよしと撫でてやった。
「……ラチェットは、お前のことをシューティングスターって呼んでいたね」
 フントを見つめながらつぶやく。
「……織姫はどうしてお前にラチェットの名前をつけたんだろう」
 それからそう続けた。
「くぅーん」
 フントはわからないとでも言うように、そう声を上げた。



 かえでがレニにバレエをさせたのは、その閉ざされた感情を呼び起こすのが目的だった。
 バレエという舞踊劇にはセリフがない。マイムと呼ばれる動作がその代わりとなる。
 踊りとそのマイムとで、物語の筋や登場人物の感情を表現するのだ。
 笑うこと、泣くこと、怒ることをしないレニがいきなり芝居をするのは難しかったが、決められた形のあるマイムでならそれが可能だった。
 そうしてやがては芝居にも挑戦させ、舞台を通して感情を模擬的に体験させることで、心を開いていくきっかけになればとかえでは考えたのだ。
 星組時代。他のメンバーと違い演劇経験のないレニがバレエを始めたことにより、星組の舞台も自然とバレエ中心の活動になった。
 ラチェットも織姫もバレエの経験はあったし、他のメンバーからも異論は上がらなかった。
 レニはみるみる上達し、やがて初公演が決まる。
 演目はチャイコフスキーの『白鳥の湖』。
 王子ジークフリートにラチェット。オデット姫にはレニが選ばれた。
 そこには性別に無頓着なレニにお姫様役を演じさせることで、自分が女の子であることを自覚させるというかえでの思惑も存在していた。
 だが、舞台の幕は上がらなかった。
 星組計画の凍結がその原因である。
 様々な問題を内包した星組は解散し、部隊も舞台も日の目を見ることは叶わなかった。
 その後、星組のメンバーはそれぞれの場で活躍し、ラチェットはブロードウェイでデビューするや否や神のごとき女優と呼ばれ、織姫は音楽界で彼女を知らぬ者はモグリと言われるほどにその名を馳せた。
 レニはバレエを続け天才的なバレエダンサーと呼ばれるまでになるが、その踊りはかえでの思惑とは違い、神がかり的なテクニックと表現力を持ってはいるが、そこにある感情は台本に書かれた用意された感情であり、レニの心から溢れるものではなかった。
 他の二人も合わせて、星組の五人はアイゼンクライトのテストパイロットとして時折顔を合わせたが、部隊や舞台で再びチームとして活動する機会が訪れることはなかった。
 そして数年後。帝国華撃団の招聘により、レニと織姫は揃って花組に配属されることになる。
 その時、織姫がラチェットが一緒ではないことに、少しがっかりしていたのをレニはぼんやりと覚えている。



 レニは相変わらずフントの顔を撫でながら話しかける。
「フント、知ってる? バレエにはセリフがないんだ」
「くぅん?」
 フントは首をかしげた。
「代わりに手や体を動かして観客にストーリーを伝えるんだ」
 言うと、レニは体を起こす。
「いいかい?」
 立ち上がると、レニはフントの方を向いた。
「あなた」
 手の平を上に向けてフントの方に向ける。
「わたし」
 今度はその手を自分の胸に当てた。
「わかるかい?」
 レニがフントにたずねると、
「わん」
 本当にわかっているのか、フントは返事をした。
「あはは。じゃあ、見ててね」
 フントの返事に笑顔で返し、レニはマイムを続ける。
「飛ぶ」
 両手を広げ上下に動かす。
「泣く」
 両手の平を目元から撫でるように頬へ。
「怒る」
 かかげたこぶしを左右交互壁を叩くように。
「眠る」
 両手を合わせ手の甲を頬に当て首をかしげる。
「誓う」
 右手の人差し指と中指を揃えてかかげ左手は心臓の上。
「愛する」
 両手で心臓を包み込むような仕草。
 思いついたマイムを思いついた順に見せる。
 ただのジェスチャーとは違う。バレエ独特の流れるような優雅な動きがそこにはあった。
「それからこれが、踊る」
 最後に、両手を頭上に上げると、毛糸を巻く時のようにくるくると回した。



 ラチェットが帰国する前日は、良く晴れた空に星が綺麗だった。
 中庭でレニがフントと星を眺めていると、声をかけられた。
「いいかしら?」
 その声にレニが振り向くと、ラチェットが笑顔で立っていた。
「……うん」
 レニがうなずいて、ラチェットはレニに歩み寄る。
「星が綺麗ね」
 レニの座るベンチの側まで来ると、ラチェットも空を見上げそう言った。
「…………。……そうだね」
 レニはそのラチェットの顔を見つめると、一拍置いてから相槌を打つ。
「レニ」
 ラチェットはレニに向き直ると、じっとレニを見つめる。
 レニがそれになんだろうと思うと、ラチェットは黙ったまま、その手と体を動かした。
『ありがとう。おかげで楽しかったわ』
 マイムだ。
「……ラチェット」
 久しぶりに見るラチェットのマイムに、レニは少し驚く。
 と、すぐにベンチから立ち上がり、それに答えた。
『ボクの方こそありがとう。またラチェットに会えて良かった』
 流れる動きの上でレニの顔は微笑んでいた。
 それを見ると、ラチェットは驚きと喜びが入り混じった表情になる。
 それから、少しの間沈黙が流れた。
 二人の様子をフントが眺めていた。
「お願いがあるの」
 しばらく後、いつも通りの口調でラチェットが口を開いた。
「……何?」
「星組の隊長として、一つやり残したことがあるの。つきあってくれないかしら?」
 それにはレニは何も言わず、ただ首をかしげる。
 ラチェットは不意に、両手を頭上に上げると、毛糸を巻く時のようにくるくると回した。
 踊るのマイムだ。
 マイムは場面に応じてそのニュアンスが変わる。
『踊りましょう』
 ラチェットはレニに手を差し伸べた。
 レニは一瞬戸惑いの表情を見せる。
「覚えている? 私達が踊るはずだったパ・ド・ドゥ」
 パ・ド・ドゥとは、二人ペアになって踊ること。
 白鳥の湖。ジークフリートとオデットのことを言っているのだ。
「ああ」
 それにはレニは微笑んで、ラチェットの手を取った。
 フントが見守る中、星空の下で、星組の公演が幕を開ける。
 ジークフリートとオデットがそこにいた。
 レニとラチェットの頭の中、ヴァイオリンが聞こえてくる。
 テンポはアンダンテ・ノン・トロッポ。歩く速さで。行き過ぎず。
 二人の呼吸はぴったりで、パ・ド・ドゥならではの動きを見せる。
 レニがポーズを保ったままに、ラチェットが手を取り回転させるプロムナード。
 ラチェットの手につかまって、レニが極限まで足を上げるアラベスク・パンシェ。
 そしてレニの腰をラチェットが支え、頭上に高々と持ち上げるリフトが見事だった。
 互いを信頼してこその動きは、心通わせたジークフリートとオデットそのままに。
 そして踊りはクライマックス。観客はフントだけの、最初で最後の星組公演はその幕を下ろすことになる。
 だけど二人は楽しそうに、見つめあい最後まで、楽しそうに踊り続ける。
 二人の気持ちが、感情が、中庭から星空にまで広がっていくようだった。



 踊るのマイムの後レニは、その通りに踊り始めた。
 あの時のパ・ド・ドゥを思い出し、再びヴァイオリンの音色を頭に響かせる。
 だが、少し踊って、すぐにレニは動きを止めた。
「……一人じゃパ・ド・ドゥは踊れない」
 当たり前のことを、少し寂しげな表情で口にする。
 アラベスク・パンシェにもリフトにも、支えてくれる手が必要だった。
 その手は今はここにはない。
 ラチェットは今はここにはいない。
「わんわん」
 不意にフントがレニを呼ぶ。
 レニがフントを見つめると、フントはもう一度わんと鳴く。
 どうして踊りをやめちゃうの、とでも言っているのだろうか。
「ごめんねフント。でも……」
 そう言ってレニがあやまると、
「わんわんわん」
 僕と一緒に踊ろうよ。まるでそう言っているように、フントはステップを踏み始める。
 体を左右に揺すりながら、その場でとことこ足踏みをする。続いてその場でくるくる回る。お次は後ろ足で立ち上がり、けんけんとジャンプして見せた。
「うわあ。すごいやフント。いつそんなこと覚えたんだい?」
 それにレニは驚いて、そして楽しそうにそれを見る。
「わんわんわん」
 フントはそれには答えずに、そう言ってレニを誘うのだ。
 それにレニはうなずいて、一緒になってステップを踏む。
 フントに支えてくれる手はないけれど、確かにそれはパ・ド・ドゥだった。
「あはは」
 レニは楽しそうに、あの日のパ・ド・ドゥと同じように、フントと一緒に中庭で踊る。
(ああ、そうか)
 不意にレニはそれに気がつく。
(そうだね、織姫。ラチェットも最初から花組だったら、ボク達と一緒に花組に配属されていたら、帝劇はもっと楽しかっただろうね) 
 織姫がフントにラチェットの名前をつけた訳。
(またいつか、ラチェットともこうして踊れる日が来るよね)
 レニはその日に思いを馳せる。
 レニとフントは楽しそうに、木漏れ日の下でパ・ド・ドゥを踊り続けた。



レニ小説