12月25日 聖母と天使 |
太正十七年十二月二十五日。 あれから一年が経った。 朝。ボクは目を覚ますと、瞬きを二回。 目が見えていた時のなごりって訳じゃないけど、起床時には目を開ける。 それは今のボクにとって、一日の始まりにする儀式のようなもの。 だけど、すぐには起きずに横になったままでいる。 ボクの隣から聞こえる、静かな寝息に耳をすました。 その寝息にそっと体を近づける。 肌が触れるほど近づくと、温かな体温を感じた。 もう、その温度は覚えてしまっている。隊長の体温。 昨日はクリスマス公演の打ち上げで、遅くまで騒いでいたみたいだし、今日はゆっくり寝かしておいてあげよう。 一夜限りのクリスマス公演は今年も行われたけど、隊長が巴里に行っていた時のようなレビュウショウに変わった。 奇跡の鐘はもう公演されない。 聖母役はボクしか考えられないっていう、隊長の言葉通りに。 昨日の公演の後も打ち上げを兼ねて、ボクはみんなに誕生日のお祝いをしてもらった。 今年もみんなから思い思いのプレゼントを贈られて、ボクはとても嬉しかった。 みんなは目の見えないボクのために、目が見えなくても楽しめるものや役に立つものをくれた。 もちろん、去年のプレゼントも大切にしている。 去年は目が見えなくなったボクに、みんな最初に用意したものとは別のものを用意してくれると言った。 カンナは『あたいのプレゼントは目が見えねぇと意味ないんだよ』って言っていた。 でも、ボクはみんながそれぞれ最初から用意していたものを貰うことにしたんだ。 みんなが考えて、ボクのことを想って用意してくれたものだから。 その気持ちが一番のプレゼントだから。 あのアドヴェントカレンダーは今でも大切に保管している。あの宝石箱も一緒だ。 婚約指輪は結婚指輪に代わったけど、どちらも大切な宝物だ。 カンナの書いてくれたレシピは、今のボクには料理出来ないけど、隊長がその料理を作って食べさせてくれた。 コクリコとロベリアからのクッキーもとてもおいしかった。 書かれていたメッセージは隊長に読んでもらったけど、ロベリアとの料理勝負は残念といえば残念だ。 かといって、まったく料理をしないという訳ではない。 料理と呼べるのかはわからないけど、遅くまで仕事をしている隊長に夜食としておにぎりを作ってあげる。 それくらいならボクにも出来た。 隊長はそれをおいしいと言って食べてくれた。 もちろん、お茶は米田さんの湯呑を使っている。 かえでさんのペンダントや、マリアの香水はちゃんと身に着けている。 一度癖になってしまうと、それを着けていないと落ち着かない。 さくらやアイリスのぬいぐるみは、たまに抱いて寝ている。 どっちも同じくらい肌触りが良かったけど、形や大きさは違った。 隊長が言うには、さくらのは仔犬の頃のフント、アイリスのは今のフントにそっくりなんだそうだ。 紅蘭の模型やジャン班長が送ってくれたエンブレムも部屋に飾った。 戦いから離れて平和に身を置いているボクに、それはとても懐かしいものに思えた。 だけどボクは傍観者になってはいけない。 隊長やみんなは今でも戦っている。 人はどこかで起きている戦争を絵空事だと思ってはいけないんだ。 織姫の曲は楽譜を見なくても弾けるように、ボクのパートを織姫に弾いてもらい、それですべて記憶した。 鍵盤を見ずに弾くのは、そう難しいことじゃなかった。 織姫との連弾は楽しかった。 水泳とバレエにも挑戦した。すみれの水着とラチェットと昴のポワントで。 見えなくても体を動かすのは大切。動きは体が覚えていた。 一人じゃ危ないからって、隊長がいつも付き添ってくれた。 プールもバレエも障害物を極力排除すれば、見えなくても大して危険ではない。 フントの踊ってくれたダンスは、イメージにすぎないけど時々思い出す。 そのフントが今年は、驚いたことに歌を歌ってくれた。 歌と呼べるかはわからないんだけど、鳴き声に高低をつけて、ちゃんとメロディを作っていた。 ダンスといい歌といい、どうやって覚えたのか、ボクには見当がつかない。 そのフントと同じに、ボクも今は歌を歌っている。 あの日、帝都中で聞こえたというボクの歌声。 爆発的な大きさに膨れたボクの霊力に歌が乗って、帝都中に広がった。 あの時のボクの霊力は、少しでも霊感がある人ならそれを受信するほどに強かった。 たくさんの人の想いが、ボクの霊力を高めたんだ。 その奇跡とも呼べる現象がきっかけで、ボクは歌手になった。 芝居の代わりに歌を始めた。 きっと、舞台の神様がボクのために違う舞台を用意してくれたんだと思う。 蒸気ラジヲや蒸気蓄音機の普及は、歌手という職業を育てた。 だけど、最近はその仕事もお休みさせてもらっている。 他に大切なことが出来たからだ。 「だあ」 隣のベッドから、彼女の声が聞こえてきた。 ボクは体を起こすと、ベッドから抜け出す。 ボクには新しい生きる理由が出来た。 彼女。3ヶ月前に生まれた、ボクと隊長の赤ちゃん。 お医者さんには目の見えないボクに子育ては難しいって言われたけど、ボクは彼女を生んだ。 子育ては思った以上に大変で、隊長やみんなにも迷惑をかけている。 だけど、ボクは彼女にたくさんの勇気と希望を貰った気がするんだ。 それから、かけがえのない幸せを。 あの日、窓から身を投げようとしたボクは、一つの不幸でたくさんの幸せを見失っていた。 あそこで生きるのをやめていたら、ボクは彼女に出会えなかった。 あの時ボクに勇気をくれた隊長やみんなには、いくら感謝してもしたりない。 そのおかげで、ボクは今こんなに幸せなんだから。 「だあ」 ボクは彼女を抱き上げると、その柔らかい頬に頬擦りする。 温かい体温と柔らかな感触が伝わってきて、とても気持ちが良かった。 「だあだあ」 今日の彼女はとても機嫌がいいみたいだ。 楽しそうに声を上げている。 やっと首がすわったばかりだというのに、元気いっぱいだ。 ボクが彼女から顔を離すと、ボクの顔を追いかけるように手を伸ばしてきた。 ぺちぺちとボクの顔を叩く。 小さな手がボクの頬に当たり、少しくすぐったい。 「あはは」 ボクが笑うと彼女はボクが喜んでると思ったのか、さらにそれを続けた。 彼女はボクの顔の形を覚えようとしているみたいに、その手を頬からおでこの方に移動していく。 前髪に触れると、柔らかい手がボクのまぶたに当たった。 ぽわん。 その時、急に何か温かい感じがした。 知っている温かさだ。 「え」 ボクは思わず声を上げた。 こんなことがあるのだろうか。 ボクは目が覚めた時と同じように、パチパチと瞬きをする。 開いた目。 そのボクの目に、天使の笑顔が映った。 「あ」 ボクは声にならない声を上げる。 ボクと隊長の赤ちゃん。霊力は感じていた。 だけど、まさか。 ああ。そうか。 あの時、すでにこの子はボクの中に宿っていたんだ。 あの舞台。ボクに集まったたくさんの人の想いが起こした奇跡。 高まった霊力はボクの中にも奇跡を宿していたんだ。 じわりと涙が溢れてくる。 「ふあぁ。おはようレニ」 そのボクの後ろで、隊長の声が聞こえてきた。 ボクは彼女を抱いたまま、隊長に振り返る。 涙で滲んだボクの目に、隊長の寝ぼけ顔がぼやけて見える。 毎日会っているのに、懐かしいその顔。 「隊長。ボク、隊長の顔が見えるよ」 あの日からずっと、奇跡の鐘は鳴り続いていたんだ――。 |