12月24日

奇跡の鐘



「そうなの? 今何時?」
 大神の言葉を聞くと、レニが大神に尋ねた。
 いつの間にそんなに時間が経っていたのか、時計の針は日付が24日になったことを示している。
「誕生日おめでとう」
 それが答えになった。
「あは。ありがとう、隊長」
 レニは笑顔でそう答えると、
「開けていい?」
 それからそう続けた。
「…………」
 大神は、少し迷った風に言葉に詰まる。
 レニの顔をじっと見つめ、考える。
 やがて、意を決したように口を開いた。
「ああ。でも、ちょっと待ってくれないか? 最後の日は少し準備がいるんだ」
「……うん。わかった」
 レニは何があるのだろうと思ったが、素直にそう返す。
 大神はそのレニの手をそっと包み込むように取ると、
「すぐ戻るから待っていてくれ」
 そう言った。
「わかった」
 それにもレニがそう言い、大神はレニの手を一度ぎゅっと握ってから、部屋から出た。
 廊下をぱたぱたという音が遠ざかっていく。
 しばらくして、またぱたぱたという音が、今度は近づいてきた。
 少しでもレニに寂しい思いをさせたくないという大神の足音だ。
「お待たせ」
 ガチャリとドアが開いて、大神が顔を出した。
 その手には自室から持ってきた『準備』が用意されているのだが、レニの目は見えないというのに大神はそれを後ろ手に隠す。
 再びレニの横に座ると、自分の陰になるようにそれを置いた。
「じゃあ」
「うん」
 と、大神がレニの手を取ると、24日の小窓にレニの手を導く。
「ここだよ」
 最後に残ったその小窓を見つけると、
「わかった」
 レニはそれを開けた。
 カサッと紙の擦れるを音がして、小窓が開く。
 と、中からキャンディーではないものが出てきた。
 それを手に取ってその形を確かめると、
「……鍵?」
 レニがつぶやく。
「ああ」
 大神がそれを肯定した。
 小さな、金属の感触。その手触りから、真鍮かなとレニは思う。
 レニは首をかしげると、何の鍵かと思案する。
「それで、これが俺からのプレゼントだ」
 そのレニに隠していたものを大神が手渡す。
 鍵を持っているのとは逆の手で、レニがそれを受け取った。
「触ってごらん」
 言うと、一旦鍵を預かるよと、大神がレニの手からそれを受け取る。
 それでレニは形を良く確かめようと、両手で大神のプレゼントに触った。
 箱、のようだった。小さくて、ぽつぽつとした感触は装飾が施してあるのだろう。
 これも真鍮製だろうか。全体が装飾されていて良くわからない。
 きらびやかだが嫌味にはならず、気品を漂わせていた。
 綺麗。
 レニの目が見えていたら、きっとそう言ったはずだ。
 その箱の横に小さな鍵穴があるのを見つけた。
 レニがそれを見つけたのを確認すると、大神はレニに鍵を返した。
 レニはそれを受け取ると、ふと大神に顔を向ける。
「いいよ」
 それに大神がそう言って、レニは手探りで鍵を回した。
 小さくカチリと音がして、箱の蓋が開く。
 レニはそっと手を入れると、その中に入っているものを探し当てた。
 リング状だった。
 シンプルで飾りらしい飾りはない。
 金属製だが真鍮ではなかった。
 それは、すぐに形から何であるかわかる。
「指輪?」
 確認の意味でそう聞いた。
「ああ」
 大神が頷いた。
「本当は公演が終わってから渡そうと思ってたんだけど……」
 と、そこで一旦言葉を切ると、大神はレニをまっすぐに見つめ、再び口を開く。
「レニ。その指輪、婚約指輪として受け取ってほしい」
 はっきりとした口調で、そう言った。
「え」
 突然の言葉にレニは驚きの表情を見せる。
「でも、ボク――」
 レニの思いはわかる。それを口にする前に、
「目が見えないことは気にしなくていい。言っただろ? 俺はレニといたいんだって」
「たいちょ……」
「レニの気持ちを聞かせてくれないか?」
 優しく問いかけた。
「ボクは……隊長といたい。ボクも隊長といたい」
 理屈じゃなかった。ただ気持ちを言葉にした。
「ああ。じゃあ、そうしよう」
「うん。いっしょ……」
「ああ。ずっとだ」
 レニの目が涙で潤んだ。
「貸してごらん」
 言って、大神はレニから指輪を受け取る。
 大神はレニの手を取ると、誓いをその指にはめた。
「うん。似合ってる」
 その手を見て大神。
「本当?」
 見ることの出来ないレニが、左手の薬指をそっと右手で撫でる。
「ああ」
 優しく。
「嬉しい」
 微笑んだ。
 ぴく、とレニが体を緊張させる。大神の手がその頬に触れたからだ。
 だけど、すぐに安心して力を抜く。
「レニ」
 大神にとって特別な二文字。
「たい……」
 全部言い終わる前に、唇が重なった。
 かすかにキャンディーの味がする、甘いキスだった。



 その夜は離れられずに、大神はレニの部屋に泊まった。
 二人が結ばれるのは、とても自然なことだった。
 二人きりで迎える朝は初めてで、目が覚めると二人は照れた。
 昨日、アイリスが用意しておいてくれた服にレニが着替え、ぎこちないそれを大神は手伝った。
 二人とも恥ずかしそうにした。
 朝食の前にフントに餌をやりに行くというレニに、大神も付き合うと言う。
 部屋から出ようとして、大神がレニを呼び止めた。
 わずかに乱れた髪を、大神が梳かしてやった。



 朝の中庭は薄暗い。
 四方を帝劇に囲まれているので、日の当たりが悪い。
 廊下から中庭に出ると寒かった。
 少し歩くと肌に日の光が当たるのを感じて、大神にそれを確かめた。
 今はひなたにいるよと大神が言うと、わかったとレニは頷いた。
 季節と時間と日の当たる場所。廊下からの距離。噴水の音の方向。
 自分が中庭のどの辺りにいるのかの判断材料にする。
 自分の置かれている状況に順応しようと、レニは歩き出していた。
「わんわん」
 朝からフントは元気に鳴く。
「あいつもよっぽどレニのことが好きなんだな」
 その元気っぷりに、大神が思わずつぶやいた。
「フント。ご飯だよ」
 と、鳴き声を頼りにレニがフントの前に立つと、
「わんわんわん!」
 激しく鳴きだした。
 吠えている、というのではなく、注意を引きつけているように感じた。
「どうしたの?」
 レニがフントにではなく、大神に顔を向けて聞く。
 視覚のない自分にはわからない何かがあるのかと思ったからだ。
「わ」
 と、大神が驚きの声を上げた。
「すごい。フントが踊ってる」
「え」
 大神の声にレニも声を上げた。
 だが、レニには見えない分、信じられないという感情が混じる。
「右にステップ。その場でくるっと回って、左にステップ」
 レニの言葉からその感情を読み取って、大神が詳しくフントの動きを解説する。
 レニは大神の声とフントの足音。それを頼りに懸命にフントの動きをイメージする。
 聞けば確かにリズミカルな足音に、時折タイミングを計るように鳴き声が聞こえた。
「ジャーンプ。すたっと降りて胸を張る」
「わん!」
 その鳴き声を最後に、フントの足音は聞こえなくなった。
「終わったみたいだ」
「すごいや。すごいやフント」
 目で見ることは出来なかったが、確かにそこでフントが踊った。レニは少し興奮気味になる。
「あはは」
 レニはその場にしゃがむと、手を広げた。
「わん」
 そのレニに向かってフントが飛び込んでくる。
「フント、誕生日プレゼントのつもりなのかな……」
 大神がぽつとそう言った。
「プレゼント?」
 飛び込んできたフントの体をぎゅっと抱きしめて、レニもその言葉を口にする。
「フント。ありがとうフント。ありがとう」
 繰り返し、抱きしめたフントに礼を言う。
「ごめんね。見てあげられなくてごめんね」
 次にそう言って謝った。
「わう?」
 フントはそれに見てくれたじゃない? と言ったのか、首をかしげる。
「ごめんね、ボク目が見えなくなっちゃったんだ」
 それを受け入れたはずなのに、やはり悔しさが沸いてくる。
「わぅーん」
 わかっているのかいないのか、それにフントはそう鳴くと、レニの顔を舐めはじめた。
「あ、フント。くすぐったいよ」
 それでレニに笑顔が戻る。
「あはは。応援してくれてるんだね」
 元気が出た。



 レニの体のことを考え、ゲネプロは中止とした。
 集まった記者や関係者は説明を求めたが、支配人である大神はすべては明日話すとして、一切を語らなかった。
 公演前にレニの目のことを話し、動揺させることになってはと考えたからだ。
 ゲネプロに招待された面々は納得がいかない様子だったが、大神の誠実な態度に文句も言わなかった。



 18時開場。19時開演。
 玄関を開けるのは支配人の仕事だ。
 18時前。大神は支配人スタイルである背広に着替えて、ロビーに立つ。
 すでに外には開場を待つ客の列がすごい。
 時計の針が一直線になると、大神は玄関の鍵を開けた。
「ようこそ、劇場へ」
 開け放たれたドアからなだれ込む客に、大神が挨拶する。
 初めての客、常連客、招待客。
 すべてに等しく笑顔で迎え入れた。
 米田やすみれも姿を見せ、それぞれの席へと案内されていった。
 その頃楽屋では、花組が準備を整えていた。
 それぞれ衣装に着替えたり、メイクをしたりしている。
 レニはさくらに手伝ってもらい、聖母の衣装を身に着けていた。
「あら?」
 その時、さくらがそれに気づいた。
 レニの左手。その薬指。
「レニ、それ……」
 と、反射的に口にした。
 さくらの声に花組も反応し、それぞれがレニの方を見る。
「う、うん。……今日、隊長に貰った」
 少しはにかみながら、レニが報告する。
「レーニ! それって婚約指輪ですかー?」
 レニの薬指を見て、織姫が驚いた顔をした。
「……うん」
 照れてうつむいたレニが、小さく頷いた。
「わーお!」
「ひゃー!」
 織姫とアイリスの声。他のメンバーも驚きの表情を見せる。
 さくらは呆然といった表情で、絵空事でも見るように目の前のレニを見つめている。
 視線は薬指、からレニの顔へ。
 そのレニの顔を見ると、瞬きを一回。同時に、絵空事は現実に戻っていき、固まっていた表情もゆるんでいく。
「おめでとう、レニ」
 優しい笑顔でさくらが言った。
「おめでとう」
「おめでとさん」
「おめでとでーす」
「良かったなぁ」
「おめでとー」
 それから口々に花組からお祝いの言葉。
「ありがとう、みんな」
 照れたままに、レニがお礼を返した。
「あら、もう誕生日のお祝い?」
 そこへ、楽屋のドアが開いて、かえでが姿を見せる。
 聞こえたおめでとうの声にそう思ったのだろう。
「かえでお姉ちゃん。レニがお兄ちゃんと婚約したんだよー」
 それにアイリスが自分のことのように嬉しそうな顔で、かえでに説明した。
「ええ?」
 目を丸くするかえで。
 その目がレニの薬指に光るものを見つけた。
「そお」
 どこかしみじみとした口調。
「おめでとう、レニ」
 それから優しく祝福の言葉。
「ありがとう、かえでさん」
 かえでに顔を向けて、レニがまたお礼の言葉。
「じゃあ、今日の打ち上げは誕生日と婚約のお祝いも兼ねてね。おめでとうがいっぱいだわ」
 うふふとかえでが笑った。
「さ、みんな。準備が出来たら舞台袖に集まってちょうだいね。もうすぐ時間よ」
 本来ここに来た用件をかえでが伝える。
 それに花組が返事をすると、先に行くからとかえでがドアノブに手をかけた。
「かえでさん」
 それをレニが呼び止める。
「何?」
 言葉通りの顔をして、かえでがレニを見た。
「かえでさん。ありがとう。いつもボクのことを見ていてくれて」
 思いがけない言葉。
「っ」
 不意のレニの言葉に、視界が滲んだ。
「やだ……」
 つーっと頬を伝う。
 一番近くにいたマリアが、そっとメイク用のちり紙を渡す。
 ありがとうとそれでかえでが目元を押さえると、
「何言ってるのレニ。まだまだこれからもよ。大神君にだけ任せてはおけないわ」
 まだ目に涙を残したまま、だが笑顔で、おどけた口調で。
「隊長は、」
 それに反射的に、レニが口を開く。
 みんながそれでレニに注目したが、思わず出た言葉にレニは戸惑って口をつむぐ。
 けれどみんなの沈黙が次の言葉を待っているのだと察し、ためらいがちに続けた。
「……優しいよ」
 一瞬後、レニの口から出たのろけに、みんな笑った。



 舞台の幕は開いた。
 役者も裏方も万全の態勢で臨んだ。
 照明係はレニが立ち位置を間違えたとしてもスポットを当てる心構えだったし、音響係はレニの聴覚の邪魔にならないように、音量やスピーカーの向きに細心の注意を払った。
 加山率いる黒子組は、何があってもすぐフォロー出来るよう、セットの裏や天井に控えた。
 たくさんの人達に支えられ、レニは舞台に立っている。
 芝居は終盤まで何事もなく進む。
 今は、聖母が喜びに舞うシーン。
 ダンス。
 バレエの動きが取り入れられたそれを、優雅な動きで踊る。
 しかし、そこでミスを犯した。
 くるくるとその場で片足で回転し、客席を向いて止まる。そこでセリフだった。
 だが、自分の位置を見失った。
 今どちらを向いているのか。回転しながら思い浮かべていたはずのイメージが不意に失われた。
 神経を張りつめながらの演技。一瞬だが集中力を欠いた。
 疲労がたまっている。
 回転を止めたレニは、しまったと思う。
 だが、冷静に自分の向きを探る。
 照明から感じる熱。スピーカーのノイズ。舞台上のすべてのものに意識を飛ばし、自分が向いている方向を割り出す。
 神経が磨り減っていく。
『レニ! 逆向いちゃってるよ!』
 レニが答えを見つける前に、アイリスのテレパシーが聞こえた。
「ああ。なんて素晴らしい」
 心の中でアイリスに感謝しながら、何事もなかったように、振り向きざまセリフを口にした。



 すみれと米田は招待席で、その舞台を見つめていた。
 すみれはレニの演技に違和感を感じていた。
 すみれの知るレニとどこか違っていた。
 ぎこちないというのか、キレがないとでもいうのか。
 誰もそれには気づいていないかもしれない。
 だが、同じ舞台に立ってきたすみれには、レニの動きがどこかいつもと違うと感じられた。
 そこへ、先ほどのミス。
 そのミスも他の客は気がつかなかっただろう。
 一瞬のレニの戸惑い。
 それにすみれは気づいた。
「米田さん」
 隣に座る米田に小声で話しかける。
「今日のレニ、何だかおかしくはありませんこと?」
「お前ぇもそう思うかい」
 米田も気づいていた。
「どこか悪くしてるのかも知れねぇな」
 険しい顔になる。
「何だか胸騒ぎがいたしますわ」
 すみれが眉をひそめた。
 二人は席を立った。
 舞台袖は関係者以外立ち入り禁止だが、帝劇にすみれと米田の顔を知らない者はいない。
 レニのことで尋ねたいことがあると言うと、奥へ通された。
 舞台袖にいた大神は、二人が来たと聞くと、気がついたのだなと悟った。
「目が見えねぇだと!?」
 二人に誤魔化しても仕方がない。大神はありのまま話す。
 それを聞くと、米田は大声を上げた。
「そんな……」
 すみれは呆然とした顔。
 舞台は聖母の喜びの舞のシーンから、天使達の相談のシーンへと変わっていた。聖母の祝福について話し合うシーンだ。
 聖母役のレニは今は袖に控えていた。大神の隣にいる。
「……本当、なんですの?」
 すみれの声がレニに向けられる。
「うん」
 頷いた。
「一体どういうおつもりですの? 目が見えないのに舞台に立たせるなんて」
 それを聞くと、キッと厳しい表情に変わり、すみれが大神に問う。
「俺がレニに演じてくれと言ったんだ。俺の舞台で演じてほしいと」
 大神が真剣な眼差しを向ける。
「どうして、そんな!」
「隊長はボクのために言ったんだ。ボクを勇気づけるために」
 レニも真剣な表情で答えた。
「…………」
 米田は大神とレニの表情を見比べていた。
 あの日と同じように、二人は今日も同じ顔だ。
 それから、ふとレニの指にはまるものに気がついた。
『早過ぎるかと思ったが、丁度良かったってことかい……』
 と、自分が二人へ用意したプレゼントを思い出す。
「どうせ言っても聞かねぇんだろ」
 諦めた、というよりは呆れたような口調。
「米田さんも何かおっしゃってください」
 それにすみれが言う。
「すみれ。俺達は帝劇を出た人間だ。こいつらを信じて、後を任せたんだ」
 今度はまじめな口調になる。
「それは、そうですけど……」
 それにすみれは少し困ったような表情。
「だったら俺達は見守ろうじゃねぇか。最後まで、客席でよ」
 米田が大神をじっと見つめる。
「信じていいんだろ?」
「はい!」
 大神が答えた。
 それを聞くと、米田はレニの方に顔を向ける。
「レニ。お前ぇ、性格が大神に似てきたんじゃねぇか?」
 優しい表情になり、そんなことを言った。
「……隊長は米田さんに似てきた」
 それにレニはそう返した。
「なにぃ」
 眉をしかめる米田。
「いいっ」
 そんなこと思ってたのかと大神。
 二人は思わず顔を見合わせ、少し引きつった風の大神に、米田はふっと笑顔になる。
「お前ぇらには敵わねぇよ」
 信じてはいる。だが、心配も消えない。
 矛盾するそれは親心というものか。
「じゃあな、レニ。客席で観てるからよ。最後まで負けるんじゃねぇぞ」
 親の役目は応援し見守ること。
「うん」
 娘が頷き、米田は背中を向けた。
「もう」
 それを見ていたすみれも、仕方がないのかとため息をつく。
「レニ。わかっていますわよね?」
 そう話しかける。
「あなたは主役。主役はいつも輝いていなくてはいけませんわ」
 懐かしいすみれらしい言葉。
 それはすみれの言葉で、無茶をしてはいけないということ。
「わかってる。ボクは一人じゃない」
 わかっているのなら、もう何も言うことはない。
「がんばりなさい」
 すみれは最後にそれだけ言った。



 いよいよクライマックス。
 天使の相談は終わり、聖母の祝福に地上へと舞い降りる。
 聖母を中心に天使達と繰り広げられるダンス。
 その後、天使の祝福に答えるように、聖母の歌へと繋がる。
 神経を張りつめて演じるレニの疲労は、ピークに達していた。
『レニ、大丈夫?』
 踊りながら、アイリスがテレパシーで話しかける。
『うん。ありがとうアイリス』
 レニはそう答えるが、気力で持ちこたえているというのが本当のところだろう。
 舞台上、七人で踊るダンス。
 高く跳ぶレニ。
 真っ暗な世界は恐ろしくバランスが悪い。
 気を抜けば、着地する地面がどこなのか見失いそうになる。
 繰り返すターン。
 先ほどの失敗を恐れないレニ。
 回転は聴覚を当てに出来なくさせ、不安定な体はやはり転倒と紙一重だ。
 軽やかなステップ。
 行き先は正しいのか。
 足を踏み外せば、舞台から転落の危険もある。
 それでもレニは踊り続ける。
 自分を信じて。
 自分を信じてくれた人を信じて。
 仲間に見守られながら、祝福のダンスを踊りきった。
 やがて、曲が終わる。
 ダンスの後、舞台上の配置は聖母が中央。その後ろに天使達が並んでいるはずだ。
 この後は聖母の歌へと繋がり、奇跡の鐘はラストシーンを迎える。
 息を整えるレニ。次はオーケストラの演奏が始まるはず。
 ボクはちゃんとセンターに立っているだろうか。
 今度はちゃんと客席を向いているだろうか。
 一瞬の静寂がレニにかすかな不安を呼ぶ。
 しかし、レニは背後から温かい波動を感じた。
 仲間達の、レニを見守る仲間達の霊力の波動だ。
『大丈夫だよ』
 アイリスの声が聞こえる。
 瞬間、オーケストラの演奏が始まった。
 奇跡の鐘。その最後の曲が奏でられる。
 聖母。レニがすっと息を吸い込んだ。
 レニのソロ。聖母の歌声が劇場に響き渡る。
 清らかな、そして温かな歌声が観客を包み込んだ。
 その時、客席のすみれと米田は舞台に光を見る。
 さびの部分。花組の天使のコーラス。
 その声と共に、花組の体からそれは現れた。
 六つの光は輝きながら、光の玉となってレニに向かって飛んでいく。
 米田は驚き目を見張るが、すみれはかつて、それと同じものを見たことがあった。
 武蔵での戦い。大神とさくらが行った二剣二刀の儀。
 すみれ達七人はそれを見守るしかなかった。
 しかし、ただ見守っていただけではない。
 祈り、願い、想いを二人に託した。
 その時、すみれ達の想いは霊力に乗って、光の玉となって二人に運ばれた。
 その想いは力となり、大神とさくらを助けたのだ。
 その光の玉が、今舞台上で輝いている。
 衰えたとはいえ、霊力を持つすみれと米田。他にも客席に霊力を持つものがいれば、それが見えただろう。
 六つの光はレニを包み、やがてレニの体に吸い込まれていく。
『レニ。がんばって』
『レニ、もう少しよ』
『アイリスがついてるよ』
『一緒にがんばろな』
『あたい達の舞台、成功させようぜ』
『レニ、がんばってくださーい』
 みんなの声がレニの心に響く。
『みんな』
 みんなの想いを受け取る。
 温かい。
 疲れていた体は癒されていくようだ。
『ありがとう。みんな』
 レニの歌声が、よりその輝きを増した。



 紐育。
「ラチェット。歌わない?」
「どうしたの急に?」
「今頃、レニは歌っている」
「ああ。そうね。……ええ。歌いましょう」



 巴里。
「帝劇は今頃クリスマス公演だよね」
「レニが主役っていうアレか?」
「うん。レニ、がんばってるかな」
「はん。あいつのことだ、ちゃんとやってるよ」



 中庭。
 ピンと耳を立て、フントは劇場の方を向いている。
 じっとそちらを見つめながら、一度もよそ見をしない。



 楽屋。
 アイリスの帰りを待つジャンポール。
 まるで舞台に近づこうとするように、椅子から落ちた。



 客席。
 すみれと米田が舞台を見守る。
 たくさんの観客の中には上下教授やフランツ・Kの姿もあった。
 ファンレターの二人もどこかにいるのだろう。



 舞台袖。
 大神とかえでが息をひそめ見つめる。
 もっとも多く愛情を注いだ二人。
 その想いはすでに。



 レニは感じる。たくさんの人の。たくさんの想い。
 様々な人が。様々な場所で。
 レニのことを想っている。
『ああ。こんなにたくさんの人達が、ボクのことを想ってくれている』
 レニの心が満たされていく。
 何も映さないレニの目に、たくさんの人達の姿が浮かぶ。
 想いを受け取った、今度はレニの想いが溢れ出す。
『ありがとう。みんな。ボク、精一杯生きるね』
 レニの瞳から涙がこぼれる。
『ありがとう。みんなのことが、ボクは大好き……』
 レニの想いは霊力に乗り、歌声と共にすべての人の心に染み入った。
 聖母の歌声は響き渡り、すべての人が心を打たれた。
 舞台と客席は光に包まれ、誰もがそこに本物の聖母を見る。
 奇跡の鐘は響き渡り、すべての人がその奇跡に涙した。



 この日、レニが舞台で歌っていた時間。
 帝都中にレニの歌が聞こえるという者が次々と現れた。
 レニ・ミルヒシュトラーセは本当に奇跡を起こしたのだと、誰もが口をそろえた。
 そして、幕は下りた。
 翌日。レニの失明と引退が発表される。
 そして翌年。大神とレニは結婚した。



補注とか