12月4日

すみれの思い出



「こほこほ」
 何度目かの咳をした。
 頭がぼんやりとする。
 食欲はあまりないのに、喉ばかり渇く。
 こんなにひどい風邪を引いたのは久しぶり。
 昨日、雨に濡れたのが原因でしょう。
 熱は38度近く。
 前にこうして寝込んだのは、そう、わたくしがまだ帝劇にいた頃だったかしら。



 水練の途中、休憩のためプールサイドに腰を下ろす。
「ふう」
 息をつくと、側で膝を抱えるレニを見つめた。
 久しぶりにプールにやってきたのだけれど、先客がいたので一緒に水練をしようということになった。
 今は二人で軽く泳いだ後、休憩をしているところ。
 この後は紅蘭の機雷を使った水練をするとレニが言っている。
「レニはなんでいつもその水着なんですの?」
 視線の先、レニのいつものそれを見ながら、わたくしはふと浮かんだ疑問を口にした。
「……これしか水着を持っていないから」
 と、レニの答え。
「そうじゃなくて。どうしてそんな水着を選んだのか、ですわよ」
 レニの水着はお世辞にもわたくし達帝劇のスタアが着るにふさわしいとは言えないデザイン。
 まだ欧米と違ってあまり露出のない格好で泳ぐのがこの日本では当たり前ですから、このレニの水着でも進んでいる方だと言えばそうなのですけれど。
「これは、ボクが選んだんじゃない。かえでさんにもらったんだ」
「かえでさんが? あのかえでさんがそんな野暮ったい水着を持ってきたんですの?」
 かえでさんは欧州が長かったこともあってか、なかなかセンスがおよろしい。
 着ている物も自然に自分に溶けこむ物を選んでいると言うか、自分に何が似合うのか知っている人だと思いますわ。
 それは他人に対しても言えることで、見る目があると言うのかしら、例えばレニにはどんな服が似合うのか、そんなプロデュースができる人だとも思っておりましたのに。
「……すみれは知らなかったかもしれないけど、ボクは帝劇に配属された当時は、何もつけずに泳いでいたんだ」
 いきなりレニがそんなことを言い出した。
「な、何もつけずにって裸でってことですの?」
「……うん。でも、ある日隊長に見つかって、水着を着ろって言われたんだ」
 レニはその時のことを思い出したのか、少し照れくさそうな顔になった。
「そ、そりゃあ言いますわよね……。って、じゃあ中尉はレニの裸を見たってことですの?」
「う、うん」
「あ。でも、そこで中尉が注意してくださらなかったら、って洒落ではございませんけど、熱海でもレニは裸で泳ごうとしたかもしれませんわよね。そんなことされたら本当に洒落になりませんでしたから、中尉がその時一言おっしゃってくれたのは正解ではありましたわね。ふむ」
 わたくしは思わず早口でそう考え、中尉がレニの裸を見た件はそれでチャラということにしました。
「それで?」
 横にそれてしまった話を修正する。
「……それで、水着なんて買ったことないしかえでさんに相談したんだけど、たまたまかえでさんが忙しくて一緒に買い物に行く時間が取れなかったんだ。でも、泳げないのは困ると言ったら、とりあえず乙女学園の水着を着ていてって」
「ああ。それ乙女学園のスクール水着でしたの」
「うん。翌日には取り寄せて渡してくれた」
「でも、その後かえでさんの手が空いた時に、一緒に買いに行きませんでしたの?」
「もうこれで良かったから。水の抵抗も少ないし、割合泳ぎやすくて気に入っている」
「それは、かえでさんもがっかりしたでしょうね……」
「……うん。どうしてかな?」
 レニはわたくしの顔を見つめると、少し首をかしげた。
 そのレニを見つめながら、かえでさんならレニのためにどんな水着を選んだだろうと想像する。そしてその水着を着たレニの姿が見られなかったことを少し残念に思った。
「時間だ」
 わたくしならレニに、と考え始めたところで、レニが壁の時計を見ながら口を開いた。
「まずはすみれからだ。入水して」
 今までの会話がなかったかのような淡々とした口調でレニ。
「もう。わかりましたわ」
 突然の休憩の終わりに少しの不平の声を上げて、わたくしはプールに入った。
「じゃ、行くよ」
 と、いつの間に用意したのか、背後にたくさんの機雷を置いてレニが声をかけてくる。
「ちょ、レニ。その機雷全部使うんですの?」
「ボクはいつもこれくらい。隊長も同じくらいだ」
「わたくしには少し多すぎますわ。それにわたくし機雷にはあまりいい思い出がありませんの」
「訓練開始」
 わたくしの言葉は完全に無視されてしまった。
「ちょっとレニ? きゃあ」
 わたくしのすぐ横でレニの放り込んだ機雷が水飛沫を上げる。
「当たると痛い」
 恐ろしいことを無表情で言いながら、レニがまた機雷を持ち上げた。
「あーれー」
 次々と爆発する機雷。
 ごぼごぼ。
 そんな音を聞きながら、わたくしも機雷と一緒に水の底に沈んだ。



「ごぼごぼ」
 そんなことを思い出していたら、嫌な音の咳になった。
 それが直接の原因なのかはわからないけれど、あの後わたくしは風邪を引き高熱を出した。
 レニが申し訳なさそうな顔をして、お見舞いに来てくれたのを思い出す。
 自分で作ったと言って持ってきてくれたお雑炊が、なんとも言えない味でしたけれど、レニが見ている手前無理をして全部食べたんでしたわ。
「少しは上達したかしらね」
 自分のことは棚に上げて、レニの料理の腕を心配する。
「それに」
 もう一つの気にかかることも頭に浮かぶ。
「まだ、あの水着で泳いでいるのかしら」
 レニももうすぐ18になるのだし、もう少しお洒落なデザインの物を着た方が中尉も喜ぶというもの。
「そうですわね。今からならオーダーメイドでも誕生日に間に合うはず」
 わたくしは今年のレニの誕生日に贈る物を思いついた。
 この時期だから既製品は売っていないでしょう。逆にこの季節に水着というプレゼントも面白いですわよね。
 サイズはかえでさんにでも頼んで教えてもらうことにしましょう。ついでにかえでさんの楽しみを取ってしまうかもしれないから、それも謝っておいた方がよろしいですわね。
「どんなデザインがレニには似合うかしら」
 わたくしはそれを考えると、少し楽しい気分になった。
「またレニと一緒に泳ぎたいですわ」
 それから帝劇の頃を懐かしく思い出す。
「もちろん機雷はもううんざりですけれど」



補注とか