将棋



   春ももう終わり。
 柔らかかった日差しも、だんだんと暑い夏のそれへと変わりつつあった。
 中庭のベンチに座り日光浴を楽しむのも、今の内と思えた。
 レニがいつものように中庭に足を運ぶと、その『今の内』を楽しもうと思ったのか、先客が1人ベンチに座っていた。
 小柄な体に背広を着込んでいる。
 大帝国劇場支配人、米田一基だった。
「ここ、いい?」
 米田が座るベンチに近寄ると、レニが声をかける。
「おお、いいぜぇ」
 米田はその声に、レニの方を見るでもなく、ベンチに視線を落としたままにそう答えた。
 米田が見つめるベンチの上、米田の横には将棋盤が一面置かれており、その上には駒が数個配置されていた。
「何してるの?」
 レニもその将棋盤に目を落とすと、聞きながら座る。
「これは詰め将棋って言ってな。ま、1人で遊ぶ将棋のパズルみてぇなもんよ」
 相変わらず、盤面を見つめたままに米田。
「戦略シミュレーション?」
「ああ、何だ〜? そんな、小難しいもんじゃねぇよ。ただの遊びよ、遊び」
 そのレニの言葉に、やっと米田が顔を上げると、レニの顔を見た。
 すると、今度はレニが盤面を見つめ、口を開く。
「ここに桂馬」
 そう言って、盤面のその場所を指差した。
「ん?」
 レニの言葉に、米田が言われた通り、桂馬を指す。
 すると、レニがそれに伴って他の駒を動かして行く。
「これで詰みだ」
 何度か盤上の駒を動かした後、レニがそう言うと、再び盤面から視線を放し米田の顔を見つめた。
 米田も盤面からレニに視線を移すと、やっと2人の目が合う。
「やるじゃねぇか。おめぇ、いつ将棋なんて覚えたんだ?」
 少し驚いた顔で米田がレニに訊ねる。
「隊長が前に教えてくれたんだ。何度か指したこともある」
 言って、微笑む。
「なるほど、それでか。あの野郎、俺に負けたのが悔しくてレニ相手に腕を磨いてやがったんだな……」
 米田はそう言って1人納得する。
「今度は支配人にも負けないって張り切っていた」
「確かに腕は上がったみてぇだが、まだまだだったな」
 米田は大神との対決を思い出すと、がははと笑い声を上げた。
「隊長でも支配人には勝てなかったの? ボクは隊長に勝ったことないのに……」
 レニが少し驚いた表情を見せる。
「ま、年の功ってやつよ」
 言うと、米田は小さく笑った。
「ところでよ。ここに桂馬より、こっちに銀の方が早いぜ」
 と、いきなり盤面に視線を落とすと、米田がレニに言った。
「え?」
 それにレニも盤面を見つめると、米田がまたさっきの配置に駒を並べ直し、先ほどとは違った手順で詰め将棋を進める。
「ここに銀。王将がこうで、ここがこう。で、こうでこう。ほら、詰みだ」
 レニに説明しながら、駒を動かす。
「あ。本当だ。その方が早いね」
 と、レニが米田の手に素直に感心した。
「桂馬でもいいんだがよ。銀からの方がちぃとばかし早い」
 ニッと笑う。
「すごいね」
 レニもそう言って笑顔を見せた。
「どうでぇ一局?」
「うん。隊長の代わりが勤まるか分からないけど」
 そして、ベンチの上に置かれた将棋盤を挟んで、2人が向かい合った。

 パチン。
 パチン。
 と、中庭に駒を指す音だけが聞こえる。
 時折、思い出したように、2、3会話を交わすが、すぐにまた盤面に集中する。
「大神の野郎が上手くなる訳だぜ」
 米田がレニの将棋に感心している。
「でも、隊長は支配人に勝ったことないんだよね?」
 その米田にレニ。
「年季が違わぁ」
 そう言って笑う米田に、
「年の功?」
 と、さっきの米田の言葉を思い出してレニが言った。
「そういうこった」
 それにまた米田が笑う。
 それから、またしばらく駒の音だけが聞こえた。

 長い時間そこでそうしているので、中庭をテリトリーにしているフントも何事かと思い、レニの足にじゃれついたりするのだが、いつもなら笑顔で相手をしてくれるレニに取り合ってもらえず、しょぼくれていた。

「ずいぶん時間経っちまったが、いいのかい?」
 米田が口を開いた。
 米田とレニの対局はこれで三戦目。
 将棋を始めて2時間は経っていようかという頃だった。
 レニも米田も面白くなって、3回も続けている。1回目、2回目と米田が勝っているので、レニとしては悔しさもあるのだろう。
「何?」
 米田の言葉にレニが首をかしげた。
「もう、カルシウムの吸収とかは十分なんじゃねぇのかい? 役者があんまり直射日光の下にいちゃまずいだろう? ほら、お肌がよ」
 と、米田が『お肌がよ』の部分で少しおどけて見せた。
「あ、そうだね。後で手入れをしておく」
 それに微笑してそう答えると、一拍置いてまた口を開く。
「……良く知ってるね」
「ああ?」
 怪訝な顔で米田。
「ボクが毎日中庭に来る理由」
「あたぼうよぉ。指令の肩書きは伊達じゃねぇんだぜ」
 そんなことは当たり前だと米田が呆れた風に言う。
「……そうだね」
 レニは、つかみ所のない人だと思いつつも、頼もしいとも思った。
 そしてまた、しばらく沈黙が続いた。

「王手」
 また、沈黙を破ったのは米田だった。
「っ」
 その声に、レニが息を飲む。
「久しぶりの対戦だが、どうやら腕は落ちてないみてぇだ」
 今日三度目の勝利を手にすると、米田が独り言を呟いた。
「……また、ボクの負けだ」
 幾分悔しそうな表情を見せて、レニが肩を落とす。
「へへ、そう気を落とすなよ。それだけ指せれば上等だぜ」
 そのレニに優しく米田が言う。
「強いね、支配人は」
 その米田を見ると、レニが思ったことを口に出した。
 それには何も答えず、米田は声を出して笑った。

「今何時?」
 日がずいぶん傾いているのに気づいて、レニが米田に聞いた。
「あ〜」
 ポケットに手を入れると、米田が懐中時計を取り出す。
 その文字盤を見る時、米田が気持ち時計を離したので、支配人もそろそろ老眼なのかな、とレニは思った。
「もうすぐ5時だな」
「もうそんな時間なんだ。……そろそろ行かなきゃ。お風呂掃除の当番なんだ」
「じゃ、これでしめぇだな」
「うん、ありがとう」
 そして、盤上の駒を片づけると、レニが立ち上がる。
「じゃあ、ボク行くから」
「おう。また相手してくれや」
 そのレニを見上げ米田が言う。
「うん」
 それに、レニが笑顔を返した。
 そして、踵を返すと歩き出す。
 米田はその背中を見送ると、ふと巴里の大神のことを思い出す。
「大神の野郎、巴里でも風呂覗いてやがんのかな……?」
 そんなことを呟いて、ベンチに体を預けると空を見上げる。
 夕日に照らされて赤く染まった空が目に映った。



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