ひまわり



 1926年8月。大神が巴里に来てすでに4ヶ月。その巴里の街に、今日も夏の日差しが照りつけていた。
 大神がアパートのベッドの上で目を覚ますと、昨日開けっぱなしにしておいた窓から緩やかな風が部屋に吹き込んできて、その窓につけられたカーテンをふわりと揺らしていた。
 窓の向こうはちょっとしたベランダになっていて、大きな植木鉢が1つ置かれている。
 そして、その植木鉢からは1本のひまわりが、太陽に向かって大きく背伸びをしていた。
 大神はそのひまわりを見ると、優しく微笑した。

 太正15年4月。大神が巴里への留学をレニと共に支配人室で聞かされてから、すでに5日が経っていた。出発はもう明後日。
 帝劇の皆も、大神も、それぞれに心の準備を整え始めていた。

 明日、出発の前日に大神の送別会が行われることになっている。
 花組の皆はそれぞれが自分らしい贈り物を考えていた。
 最初に贈り物の用意を始めたのはさくらだった。さくらは今でも大神への恋心を捨て切れないでいる。大神がレニのことを想っているのは誰もが知るところなのだが、諦めきれない、と言うよりは未練なのだろう。
 そんなさくらが、巴里に行っても自分のことを忘れないで下さい、という意味を込めて大神に贈り物をするのも無理からぬことだった。
 そんなさくらを見て他の花組のメンバーも贈り物をすることに決めた。皆にもさくらほどではないが、忘れないでほしいという気持ちがあったし、何よりお世話になった隊長へ感謝の意味を込めて贈り物をしたいという想いがあったからだ。
 レニは皆が思い思いの贈り物を用意しているのを見て、少々焦りを感じていた。レニはまだ大神への贈り物が決まらないでいたのだ。
 レニは生まれてこのかた贈り物などしたことがない。昔のレニの言葉で言えば、‘そんな必要が今までなかった’からだ。
 だが今レニは、‘必要だからする’ではなく、‘したいからする’という気持ちになっていた。
 大神の心はレニに向いている。それは誰の目にも明らかだし、レニ自身大神の想いは強く感じている。
 だが、考えてもみれば、レニにとって大神は初恋の相手だ。そればかりか、心から信頼した初めての男だ。そしてそう感じたのはほんの数ヶ月前。それがレニにしてみればまだまだ、もっともっと、色々なことを教えてもらいたかったのに、無情にも大神は巴里へ行かされるのだ。その寂しさといったら計り知れないものがあるだろう。
 自分のことを忘れないでほしい。その想いはさくら以上に、レニの方が強かったと思えた。
 だが、レニは自分を表現することがまだ上手に出来ない。舞台上での演技、役者としての表現力とは違う、自分自身を表すことがだ。

 中庭。フントの小屋の前。
 レニはしゃがみこみ、無心でご飯を食べているフントの頭をなでていた。
「お前は隊長に何も贈り物をしないのかい?」
 レニは何となくそんなことを呟いてみる。
「わん」
 それに一旦ご飯の載った皿から口を離し、フントがそう一声鳴く。
「ははは」
 それを見てレニは自分の言っていることが分かっているのかと、少しおかしくなって笑った。
「くぅ〜ん」
 とフントがレニから視線を外し、中庭の隅に目をやった。
 何かあるのかとレニがフントの見た方向に目をやると、見なれた人影がある。
「隊長・・・」
 その人影を見つけ、レニは小さくそう呟いた。
「レニー」
 と、向こうでもレニに気が付いてそう声をかけてきた。
 レニが何と答えて良いか困っていると、すぐにまた大神の声が聞こえる。
「ちょっとこっちに来てみなよ。良いものが見られるよ」
 その声に興味をそそられてレニは立ち上がると、大神の側に歩いていく。
「何?隊長」
 と大神の側に近寄るとそう言った。
「ほら、見てごらん」
 と大神は言うと、視線を下に向けた。
「わあ」
 とレニも大神に習って視線を下に向けると、思わずそう声を上げる。
「どうだい?可愛いだろう?」
 そうレニに問い掛ける大神に、
「うん」
 レニは笑顔でそう答えていた。
 そこには可愛らしい小さな花が幾つか咲いていた。
「キク科の多年草。学名タラクサクム オフフィキナーレ。日本名セイヨウタンポポ」
 と条件反射のようにレニが言う。
「ははは。レニはそういうとこ変わらないなあ」
 そのレニに大神が笑顔を見せた。
「そ、そうかな」
 レニがそう言って少し戸惑った顔を見せると、
「そんなところも好きなんだけどね」
 不意に大神がそう言った。
「・・・!」
 急な大神の言葉にレニは瞬間顔を赤くする。
「前はだめだったけど、今日は同じものを見て同じように綺麗だって感じられて良かったよ」
 そんなレニを見つめ大神が呟く。
「前は?」
 とレニはその言葉にしばし考えたが、そういえば前にも同じようなことがあったのを思い出していた。

 レニは以前、大神に同じように花を見にある場所に連れられて行かれたことがあった。
 それは、レニがまだ花組や大神に心を開く前。去年の夏の始め頃のことだった。
「レニ、綺麗なひまわりだろう?」
 大神がレニを連れてきたのは、一面ひまわりが咲き乱れる場所だった。
「別に・・・」
 とレニは大して興味もなさそうに答えた。
「この花を見せるためにボクをここに連れてきたの?他に用がないならボクはこれで」
 そして、すぐにその場を立ち去ってしまった。
「あ、レニ」
 大神の声も虚しく、ひまわりの美しさはその時のレニの心には響かなかった。

「あの時、ボクはどうして隊長があの場所に、ひまわりを見せに連れて行ってくれたのか理解出来なかった」
 足元のタンポポを見つめたままにレニが言う。
「レニ?」
 大神はレニの横顔を見つめる。
「隊長はボクに綺麗なものを綺麗だと思える心を教えようとしてくれてたんだね。なのにボクは・・・」
 その時の自分の態度を悔やむような表情のレニ。
「レニはもう、あの時のひまわりを思い出して綺麗だと思えるだろう?」
 ふっと笑顔に変わり大神が続ける。
「でも」
 と今度は大神の方を向いて口を開いた。
「今、綺麗だと感じるんならそれで良いんだと思うよ」
 それを遮るように大神はまた笑顔で言った。
「隊長」
 大神のその笑顔にレニはいつだって救われるような気持ちになる。
「あのひまわりのタネ。まだ持っているかい?」
 大神が思い出したようにそう聞くと、
「うん」
 レニはそれに頷いた。
「ごめんね、約束守れなくて」
 今度は大神が少し顔を伏せるようにして言う。
「・・・隊長」
 それにレニはすぐに言葉が見つからなかった。
 水狐戦の後、もう1度あの場所へ2人でひまわりを見るために大神はレニを連れていったのだが、その時はもう9月も半ばだったし、嵐の後でもありひまわりはほとんど散ってしまっていた。
 代わりに大神はそのひまわりからタネを取り出し、レニに渡した。
「来年になったら帝劇の庭にひまわりを咲かせよう。そしたらまた一緒に見ようよ」と言って。
 だが、大神は今年の夏、巴里にいる。
「隊長。帝劇の庭で同じひまわりを見ることは出来ないけど、あのひまわりから生まれたあのひまわりの子供たちは巴里でも咲かせられるよ」
 急にレニが答えを見つけたように声を上げる。
「レニ」
 それに大神は少し驚いたようにレニの名を呼んだ。
「ボク、ここにひまわりのタネを蒔くよ。だから隊長も巴里でひまわりを咲かせて、一緒にひまわりを見よう」
 何時の間にか瞳にたまっていた涙が溢れそうになりながらレニは声を震わせる。
「ああ、レニ」
 そう言うと、大神はそっとレニの震える肩に手をかける。
「わーん」
 そして、レニの溢れ出た感情と一緒に、大神はその小さな体をギュッと抱きしめた。

 レニは大神への贈り物をひまわりのタネに決めた。
 一緒に見ようと約束したひまわり。
 ボクも帝劇の庭でひまわりを咲かせるから、隊長も巴里でひまわりを咲かせて見てほしい。
「そして、ひまわりの花を見るたびに、ボクを思い出してほしい」
 とは言えなかったが・・・。

 アパートのベランダでひまわりに水をやりながら、大神はレニの顔を思い浮かべていた。
 笑った顔。泣いた顔。怒った顔。
 どれも大好きなレニの顔。
 あの日、泣いた後に見せてくれたのは、ひまわりのような明るい笑顔だった。
「レニもひまわりを見てるのかな」
 そう言いながらまたレニの顔を浮かべて笑顔になる。
 コトン。
 と、その時郵便受けに何かが入れられる音がする。
「何だろう?」
 言いながら大神がそれを取りに行くと、そこには日本、帝都からのエアメールが届いていた。
「レニからだ!」
 大神はその差出人の名前を見て思わずそう叫ぶ。
 そして大慌てで中身を取り出すと、それに目を落した。
 手紙にはただ、「ボクは元気」という内容の文章が何行か書いてあっただけだったが、一緒に写真が1枚同封されていた。
 そこには元気一杯に咲き誇るひまわりと一緒に、はにかんだ笑顔のレニが写っていた。
 大神は、その写真の中のレニに微笑むと、次にベランダに目をやる。
「カメラあったかな?」
 それからそう呟くと、そこに咲くひまわりを見てまた微笑んだ。



あとがき



レニ小説