胸のボタン



 1926年8月。大神が巴里に来てすでに4ヶ月が経っていた。

 シャノワール。大神の巴里での新しい仕事場。
 そこで、大神は額に汗しながら、その床にモップを掛けていた。
 大神の仕事は帝都でも巴里でもやはり雑用。清掃や酒類等商品の在庫確認に発注、そしてやっぱり伝票整理。
 戦闘と雑用で相変わらず忙しい毎日だが、最近は巴里花組の5人とも打ち解けて、巴里撃隊長としてはまずまず充実した生活を送っていた。
 とはいえ、やはり帝都が恋しくなる時もある。花組の皆は元気だろうか?米田支配人にかえでさん、3人娘は?そしてなによりレニは・・・?
「レニ・・・」不意にレニの名前を呟いて大神はその胸に手をやった。
「あれ?」胸にやった手に触れたその感覚に、大神はそう声を上げる。
 見るとシャツの胸の部分、そこに付いているボタンが取れかかっていた。
「あ!」大神はそれに気付くと清掃の手を止めて、慌ててカウンターの中に舞台衣装の応急処置用に置いてあるはずの裁縫道具を探していた。
「どうかなさいましたか?」そこへ不意にそう声が掛かった。
「やあ、花火くん」その声の主を確認すると、大神が彼女の名を呼んだ。
 北大路花火。巴里花組の隊員の1人だ。
「ああ、ちょっとシャツのボタンが取れてしまってね」見つけた裁縫道具を花火に見せながら大神が答えた。
「あら。私がお付けしましょうか?」その大神の言葉に花火が言う。
「いや、いいよ。このボタンだけは自分で付けたいんだ」大神は言って笑顔でありがとうと付け加えた。
「何か特別な思い入れでもおありになるのですか?」物腰やわらかな笑顔で花火が聞く。
「ああ、これはね・・・」大神はそのボタンの事を花火に話し始めた。

 太正15年6月。大帝国劇場では夏公演に向けての準備で皆大忙しだった。
 夏公演の演目は『アラビアのバラ』。
 主役にレニとマリア。ヒロインに織姫。
 その主役の内の1人、レニの様子が最近おかしいのだ。
 稽古中でもどこか上の空で、集中力がない。
 その日の合わせ稽古でもレニはことごとく自分の台詞をとちったり、踊りの振りを間違えたりしていた。
「♪アラビアンロ〜ズ 奇跡の花〜」織姫の歌。それに合わせてレニが舞台下手から上手に移動するシーン。
「♪アラビアンロ〜ズ 愛の花〜」織姫がそこで歌うのをやめたかと思うと、
「レーニ!一体どうしたですかー!?」とレニに向かって大声を上げた。
 レニが自分の出番だというのに、また動かずにいたからだ。
「お、織姫。・・・ごめん、もう一度最初から」織姫の言葉に慌ててレニが言う。
「何度やっても同じで〜す。今のレニとは合わせ稽古なんかしても意味ないで〜す」そのレニに織姫が言い放った。
「・・・・・」が何も言い返せないレニ。
「織姫、ちょっと言いすぎよ。レニ?でも最近のあなたは確かにおかしいわ。何か悩み事でもあるの?私達仲間じゃない。何でも相談に乗るわよ」マリアが織姫を嗜めたあと、優しくレニに言う。
「いや、何でもない・・・。何でもないと思う・・・」
「?」レニのその答えにマリアも織姫も首を傾げた。
 バタン!
 マリアと織姫がレニにその言葉の意味を聞き返すよりも早く、突然レニがその場に倒れた。
「レニ!」2人の声が舞台に響いた。

 医務室。
 ベッドに寝かされているレニをマリアと織姫が心配そうに見つめていた。
「レニが稽古中に倒れるなんて・・・。いつからそんなに弱くなったですか〜?」織姫が独り言の様に呟いた。
「・・・・・」マリアは黙ってレニの顔を見つめいている。
「ん、た、隊長・・・」レニがうなされて、愛する人の名を呼んだ。
 それを聞いてマリアと織姫はお互いにハッとする。
「そういうことですか〜」と織姫。
 マリアがその織姫の顔を見る。それに答えるように織姫が自分の意見を話し始めた。
「レニってば中尉さんがいなくなって寂しくなっちゃたんですね〜。それで最近上の空だったんで〜す。最近食事もちゃんととれていないみたいでしたし〜」そこまで言うとふぅと小さく溜息をついて続ける。
「レニ、ホントに弱くなったですね」そう言うが、その言い方は不甲斐ない者に対しての言葉ではなく、いつくしむように言われた。
「弱い・・・。確かにそうね」マリアが視線を織姫からレニに移し言った。
「だけど、その弱さは強さの証なのよ。織姫」
「強さの証?」マリアの言った意味が分からず、一語一語噛締めるように、今度は織姫がマリアの顔を見ながら呟いた。
「考えても御覧なさい。感情を取り戻したレニにとって、生まれて初めての心から信頼できる存在、掛け替えのない存在となった隊長。なのに、ほんの少し一緒にいただけですぐに隊長は巴里へ行かされてしまった。その心に開いた穴は私達には想像できないほど大きいものだと思うわ」そこで一旦言葉を切った。
「それがどうして強いって事になるのですか〜?」織姫が不思議そうな顔をする。
 そこでマリアは再び織姫の顔を見ると話しを続ける。
「その寂しさから逃げない、誤魔化さない。その事が強さの証なのよ。もしレニが本当に弱いのなら、その寂しさから目をそらして生きていると思うわ。でも、そうはしなかった。・・・愛が強ければ強いほど、人は時に弱くなってしまうものなのかもしれないわね」
「ふ〜ん。そういうものですかね〜」織姫は言うと少し考えたそぶりを見せる。
「よ〜し」そして言うと寝かされているレニが着ている舞台衣装から、そのボタンを1つちぎった。
「織姫、何をするの!?」少し驚いてマリアが声を上げる。
「大丈夫で〜す。私に任せといて下さ〜い」言うと織姫は医務室から出て行った。
「ん、あ・・・。マリア?」マリアの耳にレニの声が聞こえた。
「あ、レニ。気が付いたのね。大丈夫?」マリアが優しく声を掛ける。
「うん、ごめん」とレニ。
「気にしないでレニ。立てる?」マリアの言葉に従い、ベッドから降り立つレニ。
 降りながらレニは独り言の様に呟く。
「ボクはどうしてしまったんだろう・・・・・?」
 そのレニの言葉を聞いてマリアは、倒れる寸前にレニが言った『いや、何でもない・・・。何でもないと思う・・・』と言う言葉の意味をやっと理解した。
 レニは自分が抱いている感情が寂しさだとは理解している。だが、今の自分の不調がそのせいだと気付けないでいるのだ。
 寂しさで食欲がなくなったり、情緒が不安定になったりする事は、普通多感な年頃の少女なら誰でも知っている事だろう。だが、レニにとってその寂しさから来る“症状”は初めて体験するものだった。それゆえにレニはまだ本当の意味で寂しいという感情を分からないでいたのだ。
 それでもそれからも逃げることなく、真摯に自分の感情と向き合うレニ。そのレニをマリアは本当に強いと思った。
 そしてマリアは思う。
“隊長、早く帰って来てあげて下さい”と。

「それで送られて来たのが、このボタンって分けさ」大神が花火に言った。
「そうでしたの」花火がそれに答える。
「それで、代わりに俺がいつも着ている服のボタンを送れって書いてあってね」言うと大神はハサミで糸を切り、ボタンを付け終わった。
「その織姫さんという方、とてもお優しいんですわね」と笑顔で花火が言う。
「織姫くんだけじゃないさ。帝劇の人達は皆優しいんだ」大神も笑顔で答える。
「『アラビアのバラ』の舞台も大成功だったそうだよ」そしてそう付け加えた。
「大神さんのボタンを舞台衣装につけて、レニさんは強さを取り戻したんですね」花火の言葉に大神は優しく微笑した。
「そのレニさんという方、素敵な女性なんでしょうね?」不意に花火が聞く。
「ああ」それに大神はうろたえる事なく、はっきりと花火にそう返した。
「少し焼けてしまいますわ」その大神の顔を見て花火が言う。
「えっ!?」それに大神が驚くと、花火がくすくすと笑った。
 その笑いに“からかわれたのかな?”と大神も照れ笑いを見せた。

 帝都の空を見上げて、レニは考えていた。
「隊長。違う空を見てても、この胸のボタンと同じようにボクの胸にはいつも隊長がいる。隊長がいないのは寂しいけど、ボクがんばるよ」

 巴里の空を見上げて、大神は考えていた。
「レニ。違う空を見てても、この胸のボタンのように俺の胸にはいつもレニがいる。レニに会えないのは寂しいけど、必ず迎えに行くから待っていておくれ」

「隊長」
「レニ」
 そう思う2人の心が、その時通じたような気がした。



あとがき



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